ホレンコの友 2017年9月号
                  
        「主は心の宮におられる」 
                    
                    日本聖公会:平取聖公会牧師 パウロ 内海信武

「チャップレーン!神さまってどこにいるの?」と子どもたちが聞きます―わたくし「ウーン、みんなのここに(胸のところに丸を描いて)お宮があってネ、そこにおられるのサ」と答えます。これは、わたくしどもの保育園の子どもたちとのやりとりです。
 昨年秋、胃に早期ガンが見つかり切除手術を受けました。その入院中の日曜日に先輩牧師が聖品(主イエスの体と血を表象するもの)を携えて訪問してくださり、聖餐を感謝していただきました。そして二週間ぶりに退院して「朝の祈り」の時、いつもの霊的読書(ヘンリー・ナウエン著「今日のパン明日の糧」)で開かれた1章は実に感銘深いものでした。以下にそのまま記します。

エマオの弟子たちの家でパンを割かれた時に、二人の弟子たちはそれがイエスだと分かりました。その時、イエスの「姿は見えなく」なりました(ルカ福音書25章31節)。
イエスだと分かることと、イエスの姿が見えなくなるということの二つのことは、実は同じ一つの出来事です。何故でしょうか。それはキリストである彼らの主イエスが、自分たちの中に生きておられること、そしてそれゆえに自分たちがキリストを運ぶものとなったのだということが、弟子たちに分かったからです。
 つまり、イエスはもはや、彼らが話しかけたり、助言を得たりする見知らぬ人や客や友人として、テーブルの向こうに座っているのではありません。イエスはこの弟子たちと一つになられたのです。
 イエスはご自身の愛の霊を二人に与えられました。彼らの旅の道連れであられたイエスは、今や彼らの魂の同伴者となられました。二人は生きています。けれども、生きているのは彼らではなく、二人の内にあって生きておられるキリストなのです(ガラテヤ書2章20節)。
 聖餐は、イエスが私たちにとって一番身近な方となって共にいてくださる場です。というのも、イエスが私たちの「内」にキリストとなって生きておられるばかりか、キリストとして私たちの「間にも」生きておられるからです。エマオで、パンを割いた時にイエスであると分かった弟子たちが、互いの間に新しい親しみを見出して、共に友人たちのところへ戻ってゆく勇気を得たように、イエスの体と血をいただいた私たちも、お互いの間に新しい一致が生まれたことに気づくことでありましょう。


      
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