ホレンコの友 2022年1月号

             「いのちに触れる恵の場としての礼拝」                                 
               日本聖公会:新札幌聖ニコラス教会牧師  上平 更

  外の壁や乗り物の手すりなどに手が触れる時、どこかでそれに対して気構えている自分に気がつく時があります。もっと言えば、何かに触れる前後に両手を消毒している自分自身にさえどこか汚れているのではないかと常に意識している自分がいます。
 2020年から続く新型感染症対策のため、私たちは多くの場で誰かに触れる、何かに触るということを避けてきました。衛生管理上やむを得ないことですが、私は外出後に、この緊張感からドッと疲れを感じるようになりました。
 四つの福音書では、様々な場面で「触」という行為が描かれています。イエスが病苦に悩む人たちに「触れて」癒される場面、あるいは、彼らからイエスに「触れたい」と願い、イエスの元を訪れる場面が何度となく記録されています。聖書において「触れる」という行為は、私たちが日常に感じる以上の大切な意味があるのかもしれません。
 日本文化にも「手当て」という言葉があるように、私たちは手が相手に「触れる」だけでも癒す力があるとどこか信じています。実際に心が落ち着いたり、痛みが和らいだりする経験がある人もいるでしょう。そして、「触れる」ことで得られる安心感は、病気の有無に限らず、私たちが日常自然に求めているものかもしれません。
 日本語の「触れる」は、「触る」と読んだ途端にその言葉のイメージをガラッと変えてしまいます。私たちは自然にこの二つの表現を使い分けていますが、その根底には、触れる対象物や相手に対して自分がどう捉えているのかという心情が表れてきます。 同じ漢字を用いても「野良犬に触っちゃダメよ!」と「動物に触れることが情操教育に役立つ」で対象に対する意識の違いは明白です。
 「触る」という行為は、主体から対象への、一方的な「接触」を説明するだけです。一方、「触れる」には、対象の存在を尊重し、大胆に言ってしまえば、相手のいのちにまでもつながりを求める心の思いが込められているように感じます。創世記において、蛇はエバにエデンの園の中央に生えている木の実に「触れてもいけない」と付け加えて、彼女の欲求を刺激し、罪へと導きました。「触れられない」と禁じられることは、人間にとって、私たちの想像以上に苦しい枷なのかもしれません。
 礼拝は、そのような私たちの「触れたい」という願いに応えてくれる、キリストの体と一つになる恵みの場です。私たちの根源的な欲求、誰かと共にいたい、共に在りたいという心の渇きを癒してくれる、神との「触れ合い」の場なのです。

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