ホレンコの友 2015年12月号「赤ちゃんのイエス様」           
                                救世軍札幌小隊長 平本宣広
「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」
(ルカによる福音書2章11節と12節)

 天使が羊飼いに伝えた言葉です。イエス様は、「あなたがたのために」生まれて下さいました。そうです。羊飼いは、すべての、特に貧しい人を代表しているのです。
三人の博士が勘違いしたように、もし、ヘロデ王様の宮殿で誕生していたら羊飼いは救い主に会えなかったでしょう。宮殿の入り口で門番に追い返されたに違いありません。野宿している羊飼いが、馬小屋で出産したり、飼い葉桶に寝かせたりすることは良くあった事でしょう。イエス様の誕生に親しみを感じていたことでしょう。

 「乳飲み子」が、救い主の「あなたがたへのしるし」とは、どのような意味があるのでしょうか。乳をのまなければ死にます。両親の愛と保護によって生き成長するのです。無力な赤ちゃんですが、私たちを幸せにします。赤ちゃんを抱くとき、幸せを実感します。イエス様は、わたしたちが抱きかかえることができるサイズにまで小さくなられたのです。
神を見たものは死ぬ、と恐れられていました。ギリシャ神話のイーカロスのように、太陽に近づくならば、目はつぶれ焼けて溶けてしまうでしょう。義である神様の光の前に立つならば わたしたちはさばかれ滅びるしかありません。

 「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が、『イエス・キリストは主である』と公に宣べて、父である神をたたえるのです。」(フィリピ信徒への手紙2章より)

 イエス様が人となり赤ちゃんとなって下さったので、触れることができ、声を聴くことができ、抱きかかえて心に受け入れることができるのです。
クリスマス・羊飼いと共に、赤ちゃんとなったイエス様を礼拝しましょう。
ホレンコの友 2015年11月号「善は愛によって実現します」 ローマの信徒への手紙12章9〜21節
                               日本キリスト教団西札幌伝道所 丸山澄夫牧師
愛は、聖書の最も大きなテーマです。パウロはここで愛を規準にした生活について勧めの言葉を述べていきます。自分に「迫害する者のために祝福を祈りなさい」と言い、「悪に対しては善をもって悪に勝ちなさい」と言います。しかし、これらの言葉は、私たちの現実社会からすればまるで正反対のように思います。この現実は、悪に対しては悪をもって報いる社会であり、自分の敵に対しては復讐しょうとするのではないでしょうか。
しかしパウロは「自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい」と言うキリスト者のあり方を述べます。裁くのは、ただ神のなさる業だからです。そして神は御子イエスを通して悪は打ち負かされたと宣言します。如何に強く恐ろしい存在であっても、悪はすでに敗北しているのです。
アメリカのキング牧師は、黒人の地位向上に大きな働きをされましたが、彼の書でイエス・キリストを「彼は、悪によって悪を克服しようとはし給わなかった。彼は善によって悪を克服し給うた。憎しみによって十字架につけられながら、積極的な愛によってこれに応え給うた。なんというすばらしい教訓だろう。」と述べております。ですから、その「善」とは、私たち人間の善ではありません。この世的に優れた実力者であっても人格的にも素晴らしいと言われる人も、そのような人徳で悪に勝つ事は出来ないと聖書は語ります。キング牧師が偉大な事を行ったのも、彼の人徳がなしたのではなく、神の力(愛)が働いたからです。神お一人だけが善なる方なのです。
諸々の悪は、この世において有効な力を見せつけるかも知れませんが、神の力の前にはもろい存在なのです。でも私たちは、その愛がこの現実の中で本当に通用するだろうかと不安になることがあるかも知れません。しかし、パウロはコリントの信徒への手紙一の13章で、愛は「不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。愛は決して滅びない」と記しています。愛は神から来たものだからです。
キング牧師が言ったように、悪をも引き受ける愛の強さ、それが、悪の連鎖を断ち切るのです。その愛の神が私たちの神です。その神の御言葉によって養われつつ、押し出されて行きたいものだと思います。そして、日々の中ですべての人と平和に暮らす、その道へ向かって共に善を授かって歩んでいきたいと思います。
ホレンコの友 2015年10月号「約束の主にハレルヤ!」 (ルカによる福音書22章31節〜34節)
                      福音バプテスト宣教団 コイノニアキリスト教会牧師 平吹 貞夫
イエス様が過越の小羊として明日十字架につく決意をされていた時に、イエス様を裏切る者は「いったいこの中のだれなのかと、互いに議論をし始め」(23節)、「また、彼らの間には、この中でだれが一番偉いだろうかという論議も起こった」(24節)、と弟子たちの無頓着な姿が記されています。イエス様と3年の間、寝食を共にして、イエス様から直接訓練を受けてきた彼らでしたが、ここに至っても真実を見ることのできない自分中心な人間の罪深さを彼らの論議から教えられます。
 これは、彼らだけの問題ではありません。私たちも同じような者であって、自分中心の罪が争いを招くということを忘れてはなりません。世界情勢がどうであっても、周りの人々がどうであっても、結局、自分の問題が最優先なのです。イエス様と共に歩んでいると思いながらも、人生の「ふるいにかける」(31節)つまり、信仰の成長に欠くことの出来ない試練がくると、キリストの心に気づくことができず、シモン・ペテロのようにイエス様を知らないふりをしてしまったり、信仰が無いかのような振る舞いをしてしまう、イエス様から「信仰の薄い人たち」(マタイ6章30節)と呼ばれる存在なのです。
 しかし、イエス様はそのような私たちをも、シモン・ペテロに約束されたと同様に「しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。」(32節)と、とりなしの祈りで支え続けてくださいます。私たちを恵みにより救い出してくださった主は、消えてしまいそうな私たちの小さな決意にも、シャカイナグローリー(主のご臨在)の火を灯し続けてくださいます。決して私たちを見捨てず、私たちの小さな信仰を励まし、私たちに与えてくださった聖霊によって神の愛を私たちに注ぎ続けてくださいます。そして、「あなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」と、シモン・ペテロに語られた主は、私たちをも励まし続けてくださるのです。
 イエス様は、愛のひとかけらもないような私たちのために十字架につく決意をされ、自分中心にしか生きられないような私たちの罪の身代わりとなって、聖書の示すとおりに、十字架上で死なれ、葬られ、聖書に従って三日目によみがえられました。この良き知らせを信じる者には、永遠のいのちが約束されています。ここに、神の決して変わることのない愛の啓示があります。
この救いを成し遂げてくださった「約束の主にハレルヤ!」
ホレンコの友 2015年9月号『困難はこの上もない喜びとなる』  ヤコブ1:2
                          福音バプテスト宣教団・北広島チャペルキリスト教会 木村恵一
私達を不幸に貶める、困難・問題・煩い・迫害を喜べる者なんているのでしょうか。実にいるのです。それは真の神にして救い主イエス・キリストを信じる者です。確かに、困難問題そのものを喜ぶ者はいないでしょう。困難は困難であり、悲しみは悲しみ、痛みは痛み、迫害は迫害でしかなく、それらは自分の毎日や人生にマイナスをもたらす災いでしかないと思うのは至極当然なことです。
 しかし、イエス様を信じる者には、最早この世の事態がそのまま届かないのです。なんと信じる者にとっては、人を苦しませ滅びに向かわす罪ゆえに生じる困難問題迫害の真意が変えられ、かえってそれらは益となり祝福となります。ですからイエス様は使徒ヤコブを通して言われます『私の兄弟たち、さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい。』と。またイエス様ご自身「悲しむ者、わたしのために迫害され罵られる者は幸いです。喜びおどりなさい。」(マタイ5:4-12参照)と言われ、私達があらゆる状況に置かれていても、そこで私達は主にあって喜ぶことができると、喜びなさいと教えてくださるのです。
 事実、その喜びを決定付ける出来事をイエス様ご自身が成し遂げてくださいました。それはあの十字架と復活によって人類最大の恐怖なる死を打ち破られた御業です。それによって、今や死はそのトゲを抜かれ、死が死として意味を持って私達を苦しめることはできなくなり、かえって死は栄光の天の入口となり、先に召された者達との再会の時となり、そして何よりもイエス様と直にお会いできる御栄え味わう時となったのです。
 真の神なる救い主イエス様を信じる故に、私達が恐れていた困難、問題、煩い、迫害、病気等の全ては、イエス様によって益と変えら全ては恵みとなる故に、いつもこの上もなく喜ぶことができるのです。この最高の良い知らせを提供するホレンコ放送を、どうか楽しまれお聴きください。 
ホレンコの友 2015年8月号 「キリストと使徒聖ヨハネの木彫」
                                         日本聖公会北海道教区 司祭 池田亨

14世紀ころ、ドイツ、現在のスイス国境近くのシュヴァーベン地方でつくられた「キリストと使徒聖ヨハネ」の木彫があります。それは、キリストとヨハネが仲良く並んで長椅子に座っている像なのですが、キリストに身をよせてうたた寝をしているヨハネ、そのヨハネの肩にキリストはそっと手を添え、そしてキリストのもう片方の手はヨハネの右手を握っているというものなのです。見るものにキリストとヨハネの関係、その信頼とやさしさを伝えてやまない木彫です。
とりわけ、当時の女子修道院から注文を受けて、無名の木彫り職人の手によってつくられた、その作品。約七百年の時を経て現存するその木彫は約25体ほどあり、ドイツを中心に各地の美術館・教会に所蔵されています。
西洋美術史においてはゴシック後期に位置し、その「キリストと使徒聖ヨハネ」の木彫は「キリスト・ヨハネ群像」と呼ばれ、美術史上一般に「祈祷彫刻像」に分類されるそうです。
その時代の信仰は「うるわしき神」。神はやさしさといつくしみに満ちたお方であるというところに力点が置かれたといいます。そして、これらの「キリストと使徒聖ヨハネ」の木彫は聖書的にはヨハネ福音書13:23の「イエスの愛しておられる一人の弟子が、そのおん胸によりそって席についていた」に由来し、その最後の晩餐の場面を切り取って神学的解釈を加え発展させた図像と言えます。わたしは「とってもいいな」と思うのです。
 フランクフルト市リービークハウス美術館の所蔵する「キリストと使徒聖ヨハネ」の木彫は他と比較すると、イエスさまが頭でっかちで、ヨハネがこどものように幼く、ヨハネの首の傾斜が深く、その頭がイエスさまの胸の真ん中に位置するというものです。イエスさまとヨハネの一体化が際立つ作品なのです。イエスさまは、ちょっと怒ったような顔をしているのですが、寝ているヨハネの口元はほほえんでいて、実に深い信頼とあたたかさが伝わるユーモアある作品なのです。
 わたしは、詩編のことばを添えて、ポストカードを作ったら、どんなに素敵だろうと思うのです。そのことばは…。
 
 身を横たえて眠り
 わたしはまた、目覚めます。
 主が支えていてくださいます。
            詩編3:6より
          (ホレンコ幹事)
ホレンコの友 2015年7月号「復活の主との再会」
              
                 日本福音ルーテル札幌教会牧師 日笠山吉之

かつて漁師を生業としていた弟子たちが、ティベリアス湖で漁に出かけた時のことです。一晩中網を打っても魚一匹取れなかった翌朝、すごすごと岸辺に引き上げてきた彼らに、話しかける人がいました。「子たちよ、何か食べる物があるか」。夜通し漁をして何もとれなかった彼らに、何も差し出す物はありません。そう、彼らには本当に何も差し出すものなどなかったのです。魚はおろか、体も心も信仰も何も…。そんな彼らに、そのお方は言われました。「舟の右側に網を打ちなさい。そうすればとれる筈だ。」果たして、言われた通りにやってみると、おびただしい魚が!思わず、誰かが叫びました。「主だ」。
 思い返してみれば、かつて弟子たちがこの同じ湖で初めてイエスさまに出会った時も、同じことが起きました。あの日も一晩中漁をしたのに何もとれず、あきらめて舟から上がり網を洗っていたところ、イエスさまが声をかけてこられました。その御言葉に従って、改めて網を降ろしてみますと、なんと大漁!思わずペトロは、イエスさまの足元にひれ伏して、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」と言ったのでした。するとイエスさまは、「恐れることはない。わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と答えられた…あの日の出来事が、まざまざと弟子たちに甦ってきました。
 ですから、「主だ」という仲間の声を聞いた途端、ペトロは思わず湖に飛び込んだのです。一刻も早く主イエスのみもとに行って、その足元にひれ伏したかったから?そうして主から赦され、力づけられ、祝福を受けたかったからです。それは、ペトロ自身が立ち直るために?ペトロその人が復活するために?どうしても必要なことでした。
 こうしてペトロと他の仲間たちが、岸辺に佇む主イエスのもとへ急ぎ帰ってみると、なんということでしょう!そこには炭火がおこしてあり、魚とパンがこんがりと焼けているではありませんか!湖に飛び込んで体が冷えてしまったペトロも、炭火のおかげで暖まることが出来ます。何よりも、弟子たちの空腹のお腹を満たす朝の食卓が、そこには既に整えられていたのです。主は、弟子たちに言われます。「さあ、来て、朝の食事をしなさい」。教会の礼拝でも、復活の主が私たちの信仰を養うために、御言葉と御糧を携えて、いつも待っておられます。行きましょう、主イエスが待っておられる教会へ。
ホレンコの友 2015年6月号「礼拝の喜びに生きる」
              
                                      日本キリスト教団真駒内教会牧師 田中文宏

昨年、真駒内教会は創立50周年を迎え、「礼拝に生きる神の民」を目標に掲げて新会堂建設に取り組みました。昨年6月8日のペンテコステ礼拝が旧会堂での最期の礼拝になりました。Nさんという兄弟が洗礼を受け、聖霊に満たされて感動的な信仰の証をされました。翌週からは隣接の幼稚園ホールで主日礼拝がスタート。ホールの正面には赤い衣のイエス様が小羊を抱いている姿が描かれています。礼拝に集う一人一人が、迷える一匹の小羊であり、まことの羊飼いであるイエス様の愛に守られ、導かれていることを祈りに覚えつつ礼拝を奉げました。新会堂の建設は天候にも恵まれて順調に進み、起工式、定礎式が教会員や工事関係者の列席のもとに行われ、秋には建物の全体の外観が立ち上がりました。新会堂は予定通りクリスマス前に竣工し、救い主イエス様のご降誕を新会堂で祝うことができたことは大きな喜びでした。これもひとえに神様の恵みと全国の主に在る兄弟姉妹や諸教会の祈りと支援の賜物と心より感謝いたします。
 ところで、新会堂の特徴のひとつはトップライトの屋根にあります。礼拝堂の天井からは、やわらかな光が降りそそぎ、聖なる空間を包んでいます。また、礼拝堂の周囲は外へ向かう開放的なスペースとして、様々な集会や交わりの場として用いられることを願っています。今年の真駒内教会の目標は「礼拝の喜びに生きる」、聖句は「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。」(Tテサロニケ5:16〜18)です。 今、新緑の美しい自然に囲まれた真駒内教会の礼拝に賛美の歌声が響きわたっています。教会学校の子どもたちやお父さん、お母さんに加えて赤ちゃんの泣き声もまじっています。そこには礼拝の喜びに生きる神の民の信仰が力強く証されています。ホレンコの働きを通して北海道の津々浦々に礼拝の喜びが響き渡りますように共に祈りを合せていきたいと思います。    (ホレンコ幹事)

ホレンコの友 2015年5月号 「悔い改めの喜び」
           
                                日本基督改革派札幌教会牧師  貫洞賢次      

「息子は言った。『お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。』しかし、父親は僕たちに言った。『急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。』」(ルカ15:21〜22)

この「しかし」は、とても意味深いものです。息子の言葉は、放蕩の限りを尽くして帰る者として、精一杯の反省を示そうとするものであったのかもしれません。「しかし」、父は、そんな反省の言葉など、どうでもよいかのようにこう言い出します。「急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。それから、肥えた子牛を連れて来て屠りなさい。食べて祝おう。」(ルカ15:22〜23)父にとって、息子が帰ってきたということが何よりのことだったのです。
 息子の立派(?)な反省の言葉を聞く前に、「父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻」しました。(ルカ15:20)父が求めていたのは、家に帰って来て、そこにとどまることでした。なぜなら、それこそ決定的に重要なことだったからです。「この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。」(ルカ15:24)息子が持っていくことができた財産は、使えばなくなってしまうものでした。その財産を思い通りに使って、しばらくは自分の腹と思いを満たすことができるでしょう。しかし、必ず無くなる財産です。しかも、その財産を使って自分の思い通りに行動したはずなのに、すべてを使い果たして自分のみじめさに気づいたとき、息子は「我に返って」言い出します。「父のところでは、あんなに大勢の雇い人に、有り余るほどパンがあるのに、わたしはここで飢え死にしそうだ。」(ルカ15:17)父の家から持ち出した財産は、取るに足りないほどのものに過ぎず、父の家を離れて生きる自分は、ほんとうの自分ではなかった、と気づいたのです。
自分を迎える父の喜びを知った後、今さら「雇い人の一人にしてください」などとは言わなかったにちがいありません。むしろ、子として多くのことを父から学びつつ、父と語り合ったことでしょう。父の家に帰ること、そして、そこにとどまり続けること。日ごとの悔い改めが続きます。喜びと感謝をもって。
ホレンコの友 2015年4月号 「イエスは生きておられる」     ルカによる福音書24章13節−35節   
       
                        日本基督教団 札幌元町教会代務 牧師 岸本和世

新年度は、復活日(イースター)の喜びを共にする礼拝から始まりました。 ここに選んだ聖書の箇所は、イエスが十字架に架けられた後、全くの失望状態になった二人の弟子が、イエスと共に過ごした日々の思い出を語りながら、自分の故郷の町へと向かっている様子が描かれています。彼らは自分たちの失ったものにすっかり囚われているので、今何が起きているのかに気付いていません。イエスが共に歩いていることなど思いもしてはいないのです。
 しかし、しばらくするとこの弟子たちは、自分たちの悲しい記憶から新しい命への歩みを始めることになりました。その理由は、イエスが生きて一緒に歩んでいることに気が付いたからです。とても豊かな記憶を復活させて下さったからでした。それはとても日常的な、イエスが食事−パンを裂き・祈る−を共にして下さるという出来事を通してだったのです。
 聖書はイエス・キリストが復活されたということについて述べています。どのようにして復活したかについては多くを語っていないのですが、この出来事のように、生きておられるイエスを指し示しています。それもこの弟子たちが気付かされたように、常に新しい歩みを導き、共にし続けて下さる方としてなのです。
 わたしがこの文章を書いているのは、3月11日で、東日本大震災から4年目の節目にあたっており、また前日は70年前の東京大空襲の痛ましい記憶が語られていました。さらには今この時点でも、国内でも痛ましい事件が幾つもあり、世界の各地で武力による争いがあり、子どもたちや多くの弱い人々の犠牲は計り知れないものがあります。悲しい思い出、負の記憶は癒しがたいものです。最近『記憶を和解のために』という表題の本を読みました。著者はナチス・ドイツによるホロコースト(主としてユダヤ人絶滅計画)を免れた両親の下で育った、戦後生まれのユダヤ人女性です。著者自身は体験しなかったけれど、被害者側の悲劇の記憶を第二次世代としてどのようにして受け止め、自分とは逆の意味で非難される側である戦後生まれのドイツの第二世代(戦後)の人との対話と和解の道を探っているのです。
 わたしたちの国に於いて、時の経過と共に「負の記憶」を捨て去ろうとする危険な動きが強まっています。「生きるための記憶」は、力ではなく共に生きることによってだけもたらされます。
ホレンコの友 2015年3月号「起き上がりなさい」    ヨハネによる福音書 5:1〜9  

                                日本基督教団 春採教会 牧師 田村毅朗

釧路に遣わされて、六年。まさか自分が、牧師だけでなく併設の幼稚園の園長を任されようとは思ってもみないことでしたが、園児たちに御言葉を語ることは、難しくもあり、喜びでもあり、また園児たちから教えられる歩みでもあります。
 ベトザタの池で病を癒された人の物語は、よく知られています。池に入りたくても自力で入ることが出来ず、だからと言って、池に入れてくれる人もいない。皆、自分が癒されたら満足して帰ってしまう。自分さえ癒されれば、他者の苦しみ、痛みが見えなくなるのは、私達の弱さです。
38年も病を抱え、横たわりつつ、他者が次々と癒され、歓喜して走り去る様子を見続ける悲しみは、心に鋭く突き刺さります。そのような人に主は、「良くなりたいか」と確認しておられます。けれども、その人は、「良くなりたいです」とは言っていない。私は、「良くなりたい」と言えばいいのにと思っていました。
 しかし、園児たちへのメッセージの準備中、ハッ!と気づかされました。「そうか、『主よ』と応答している」。まだ、主イエスと知らないのに(13節「病気をいやしていただいた人は、それがだれであるか知らなかった」)、「主よ」と応えていると。「主よ」。これほど短く、小さな子どもにも、老いた人にも、病の床にある人にもできる確かな信仰告白はないと。
 皆さんの中には、苦しみ、不安を抱えている方がおられるかもしれません。38年以上、患っている方もおられるかもしれません。しかし諦めないで頂きたい。何故なら、私達には、「良くなりたいか」と、答えを求めていて下さる方が与えられているから。十字架と復活、そして再臨の主は、私達の「主よ」との応答を、どんなに小さな声であっても聞き逃されることはありません。主は、必ず、「起き上がりなさい」とおっしゃって下さいます。
 3月。多くの方が新たな出発に備える時期です。あるいは残される人もあるでしょう。いずれにせよ、不安はつきものです。だからこそ、御言葉にすがりたい。「主よ」と。起き上がり床を担ぐ力と勇気を与えて下さる御言葉の力に生かされて、喜んで歩み出すことができますように。

ホレンコの友 2015年2月号「最高のアドバイザー」 ルカ5:1〜11
                                    日本バプテスト連盟 リビングホープバプテスト教会牧師 三宅真嗣

日常生活の中で、疲れを感じることはありませんか?一生懸命、何かに取り組んでいたのに、期待どおりの結果が得られなかったという時、私たちは、疲れや空しさを感じるものです。ペテロとその仲間たちは、夜通し漁をして働きましたが、一匹も魚を取ることができませんでした。彼らは、疲れた表情を浮かべ、無言で手を動かし、網を洗っていました。ところが、ペテロは、イエスと出会って、神の大きな祝福を体験することができました。イエスとはペテロにとってどんな人物だったのでしょうか?そして、私たちにとってイエスとはどんな人物なのでしょうか?
イエスはペテロに声をかけ、陸から少し離れるため舟を出すようにお求めになりました。その舟の中で、集まった大勢の人たちに向かって神の言葉を語っていました。ペテロは、イエスの話す言葉を身近で聞いていました。さて、生活と信仰は分けられるものでしょうか?「神の言葉は立派で正しいが、現実の世界はもっと複雑で、そんな単純にゆくほど甘くないよ。」周囲にそんな雰囲気を感じることがありますし、自分自身がそう感じることがたびたびあります。ところが、疲れていたペテロの心に何か変化が起こりました。主イエスは、話し終えると、「深みに漕ぎ出して網をおろして魚をとりなさい。」と言われました。ペテロは、漁を生業にし、生活してきた者です。どんな時間帯に、どんな場所で、どんな魚が獲れるのかを知っている漁のプロです。ところが、イエスが語る神のことばを身近に聞いてきて、「やってみよう!」という気持ちになったのかもしれません。網をおろしてみると、どうでしょう。網にはたくさんの魚が入り、破れそうになるほどの大漁でした。
私たちは、ここから何を学ぶことができるのでしょうか?夫婦や家族、職場や、友人との関係を保ちながら、私たちには、毎日するべき仕事があり、将来の課題や多少の不安などを抱えながら、生活しています。私たちの生活の場に、イエス様はおいででしょうか?ペテロが自分の生活の中心である漁の仕事をしている時、イエス様はそこにおられました。そして、イエス様はペテロに最高のアドバイスを与えて下さいました。私たちが、イエス様を生活の中心に迎え、そのアドバイスに従い、行動するなら、確かな神の祝福を体験することができるのです。主イエスの言葉、すなわち聖書の言葉に信頼し、従ってゆきましょう。

ホレンコの友 2015年1月号 「子どもを測る物差しは一本ではない」
                  日本聖公会 北海道教区 聖マーガレット教会牧師 司祭パウロ横山明光

           人はそれぞれ神から賜物をいただいているのですから、人によって生き方が違います。
                                 【新約聖書コリントの信徒への手紙T 7章7節】

私には、二人の息子がおります、この二人ともまさしく私と、妻との間に生まれた紛れもない私たちの子です。しかし、この二人は、性格も、興味も、得意、不得意も、遊び方も、学習スタイルも、興味も、さらに体系、体格、食べ物の好み、食欲まで、これといって同じというものはありません。同じ親から受け継いだ同じような遺伝子ですが、外に発現される特性は全く異なっております。
 よく「この子は他の子よりも発達が遅れていて、さっぱり出来が良くない」「この子は、他の子供たちと違って、変なものに興味をもったり、執着する。異常だ」、「この子は、親せきのあの子に比べて、成績がさっぱり上がらない、恥ずかしくてしょうがない」などと他の子と比較して、嘆いたり、果ては、「うちの血筋にはない子だ」などと勝手に決め付けてしまったり、また逆に、「うちの子の才能は、ちょっとそこらの子と違うんだ、家庭環境が良いんだから」、「親戚のあの子より、成績順が上にあるから恥ずかしくはない」「うちの子は、○○高校、○○大学、○○学部だから・・」などと優越感に浸っている親の姿や発言を聞くことがあります。皆さんの周りにもよくみられる姿ではありませんか。
 同じ親の子供でさえ、同じところは少ないのですから、他の家庭の子供と比較して、異なっていることは当たり前のことです。もともとこの世に生まれてくるときに神様からお預かりしてきた能力や特徴などの賜物は、みんなそれぞれ異なっているのですから、当然のことなのです。神様は、それぞれの子供に期待されていることは同じでないのですから、異なっていて当たり前なのです。大切なことは、その子の預かった賜物の発現される可能性は、希望や予測こそ出来ても、全く未知のものなのです。つまり神様のご計画の中にあり、私たちが恐れもなく、高慢にも、判断したり、決定したり、決めつけてしまうことのできないことなのです。 
 私たちは身勝手に自分の夢や時には幻想の中で、その子の状態や、発達、才能、そして可能性さえまでも自分の作った一本の物差しで計ってしまいがちです。その結果、悩んだり、嘆いたり、疎ましく思ったりまた優越感に浸ったり、そして他の子を軽蔑したりもします。そこには当の子どもの人格も、その子自身の存在も無いのです。無礼千万な親であり大人たちなのでしょうか。
 その子、その子の神様からお預かりした能力や特徴を如何に発見し、それを伸ばすためどう環境を整える支援が出来るのか、その子の成長に感謝するのかが親として、大人としての本当の大切な姿勢なのです。その時々に、もし必要なのであれば、その子どもの目標に合わせた様々な目盛りや形の工夫された物差しを使用することが大切なのだと思います。「子どもを計る物差しは決して一本だけではないのです。」
 かえって、物差しで計るよりは、その子が精一杯生きることが出来、持てる力を発現できるように、励まし支え、応援する大人の姿勢こそ神様の望んでおられることであると思うのです。そこに携わることのできることに感謝と喜びを感じたいものです。
神様は、私たちが計り知ることの出来ない神様のご計画を、その子を通して、私たちに示され、私たちの人間としての生き方の基本をお示しになっておられるのかもしれません。
如何でしょうか? 私たちも先に例を挙げた人たちのような姿や、意識を持つ該当者になっていないでしょうか。今一度自分を見つめて直して見ましょう。