ホレンコ12月号 「飼葉桶のにおい」日本キリスト教団札幌北部教会牧師 久世そらち 幼い頃、札幌の月寒のはずれに住んでいました。今はすっかり住宅地になっていますが、その頃はまだ牧草地が広がっていました。牧場に一升瓶をもっていくと、しぼりたての牛乳を売ってくれます。親に手をひかれて牛乳を買いに行き、牛舎をのぞくのが楽しみでした。その牧場はとっくになくなっていますが、今もどこかの牧場を訪れて牧草と糞のにおいがまじった牛舎のにおいをかぐと、あの木造の牛舎のあたたかさばかりでなく、幼い頃のなつかしくも満たされた心持ちまでもくっきりと思い出されます。
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ホレンコ11月号 「試練を喜ぶ(ヤコブ 1:2〜8)」 日本基督改革派 札幌教会牧師 貫洞賢次 「わたしの兄弟たち、いろいろな試練に出会うときは、この上ない喜びと思いなさい。」(ヤコブ1:2)喜べと言われても、単純に喜べないのが試練です。では、どうやって試練を喜べるというのでしょうか。 |
ホレンコ10月号 「サルにもらったキャラメル」 キリスト兄弟団 旭川栄光教会牧師 笹川 洋史
9月6日に、北海道胆振東部地震が起きて、北海道中が停電してしまう非常事態になりました。大きな被害もありました。今も困難を覚えておられる方々のために、お祈りさせていただきます。 違いがわかるチンパンジー
元上野動物園の園長の中川志郎さんが、駆け出しの飼育係だった時の話です。 すべてがわかっている神 わかっていない自分自身のために |
ホレンコ9月 「からし種一粒の信仰」 ルカによる福音書17章5〜10節) 日本聖公会 司祭 上平仁志 イエス様は「からし種一粒の信仰」でも本物の信仰があれば奇跡さえ起こると言われています。福音書の中で、イエス様はこのように「からし種一粒」を信仰の力や神の国の広がりに譬えておられます。(マタイ13:31他)。辞典によると、これは「クロガラシ」の種を指すと言われています。 |
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ホレンコ8月号
『通信講座に導かれて 』 日本キリスト教団 小栗昭夫 3月末日をもって45年間の牧会生活を終え、引退いたしました。初任地は美しい羊蹄山を見渡せる洞爺湖湖畔に建てられた小さな教会に28歳の年に単身赴任してきました。神学校を修了したその足で来ましたので、牧会経験の全くないまま、「主任・担任教師」としての働きに入りました。未熟さの故にたくさんの失敗や迷惑をかけてきました。その後、結婚した翌年に小樽に赴任して来ました。今では4人の息子、娘たちが与えられ、6人の孫たちが与えられました。しかし子どもたちに言わせれば、たとえ45年間北海道で暮らしていても、「そだねぇー」と言おうが、「○○でないかい」と言おうが、本物の「道産子」には成り切れていないそうです。初代は、そんなものかと思います。ならば、浅草に本籍をもっていた江戸っ子として、遠山の金四郎や勝海舟のようにべらんめえ調でしゃべれるか、というと、もうそれも上手くはできません。 |
ホレンコ7月号 『喜びの賛歌』 「1全地よ。主に向かって喜びの声をあげよ。2 喜びをもって主に仕えよ。喜び歌いつつ御前に来たれ。3 知れ。主こそ神。主が、私たちを造られた。私たちは主のもの、主の民、その牧場の羊である。4 感謝しつつ、主の門に、賛美しつつ、その大庭に、はいれ。主に感謝し、御名をほめたたえよ。5 主はいつくしみ深くその恵みはとこしえまで、その真実は代々に至る 」 (詩篇100篇) この詩篇100篇は、神殿に会衆が入場するときに歌われたものだと言われています。前半の1節から3節は神殿に向かう神の民たちによって賛美され、後半の4節5節は、神殿側の迎える賛歌で、先に天国へ招き入れられた信仰の先人たちが、賛美をもって迎えてくれる賛歌です。主によって天へ迎え入れられることは、最高の「喜び」であり、何よりも「感謝」なことです。
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ホレンコの友6月号 『それにもまさる喜びを』
今、街はサクラが満開です。春の青空の中に淡いピンク色の花が美しく輝き、ほのかに甘い香りが漂います。神が創造された美しい世界、それが私を喜ばせます。 人々は麦とぶどうを豊かに取り入れて喜びます。 この世で私たちが体験する喜びも悲しみも、ため息のように消え去ります。私たちの存在も名前も、200年もすれば、誰も覚えていないでしょう。そんな私たちに神は決して消え去らず滅びる事のない「それにもまさる喜び」を与えてくださいます。 |
ホレンコの友5月号 「春」
日本バプテスト同盟:札幌北野キリスト教会牧師 岡口 学 時は春、日は朝、朝は七時、片岡に露みちて、揚雲雀(あげひばり)なのりいで、蝸牛(かたつむり)枝に這ひ、神、そらに知ろしめす。すべて世は事も無し。(ロバート・ブラウニング「春の朝」/上田敏訳) 「はっきり言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている。 冬の寒さが厳しく、長く感じられるとしても、必ず春は訪れるものです。土の中から種が芽を出すように、動物たちが冬ごもりの巣穴から飛び出してくるように、冬には息を潜めていた生き物たちは、活き活きと動き始めることが出来るように、人間もまた過ちや失敗、あらゆる罪深さといった冬の時を超えて、新しい季節を活き活きと生きることが出来ます。春の暖かな日差しが、生き物たちに新しい季節を知らせるように、神様の言葉は私達に新しい恵みの時、喜びの季節を、知らせているのです。 |
ホレンコの友4月号 |
ホレンコの友3月号 数年前、ある牧師から「『ゆっくり、ゆったり、ゆたかに』、これを『3ゆの恵み』と言う」と聞いたことがあります。 十字架と復活によって回復された本来の人間性、キリストにあって「ゆっくり、ゆったり、ゆたかに」生きていける本来の人間性を神様の助けによって守ることが不可欠です。 神様は、あなたと交わりたいと待っておられるのです」と言われました。
神様は私たちがキリストにあって「ゆっくり、ゆったり、ゆたかに」歩む人生を心から応援して下さっています。私たちの一番の応援者である神様の前に静まりましょう。 |
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ホレンコの友 2018年2月号 「勇気と希望をもたらす言葉」 ルカによる福音書19章1〜10節 日本キリスト教団 旭川六条教会牧師・和寒伝道所代務者 西岡昌一郎 ザアカイは、いちじく桑の木の上に登って、その下をイエスとその一行が通り過ぎるのを見物していました。ザアカイは背が低かったので、路上では他の見物人にさえぎられてイエスを見ることができなかったからです(3節)。彼は自分の居場所がなくて、木の上に登っていたのです。これはユーモラスな姿に見えますが、本当は悲しい姿です。 イエスは、そのザアカイを見上げて言いました。「今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい」(5節)。思いがけないイエスの言葉に、ザアカイは喜んでイエスを迎え入れました。「ぜひあなたの家に泊まりたい」という言葉は、ザアカイにとっては、自分が必要とされていることを実感させてくれる言葉でした。 このように、イエスの言葉には、絶えず福音という喜びのメッセージが含まれています。 それは、きょう、ここに、あなたがいてくれなければ、お互いに成り立たないのだというメッセージです。この言葉を必要としている人が、この世にはどれだけ多くいることでしょう。 「それはたった一人からでいい。『あなたはわたしにとって、なくてはならない存在なのだ』と言われたら、もうそれだけで喜んで生きていけるのではないだろうか」。(三浦綾子) わたしたちが伝える福音のメッセージは、ここにあります。「あなたは、わたしの愛する子」と神さまは言ってくださいます。「あなたは、なくてはならない存在なのです」と語りかける主の喜ばしい知らせを伝えるのが教会の役割です。 愛が冷え、心に傷を与える言葉があふれています。教会もまた、いつの間にか、この風潮に流されています。人を励まし勇気づける言葉、希望を見出す言葉が必要なのです。 自分でほんとうに喜んでもいないことが、人に伝わることなどありません。どんなに「正しく」「間違いがない」信仰であったとしても、自分が喜んでいないものを誰が喜んで受け止めるでしょうか。そんな「正しさ」を伝えようとすると、独り善がりか、ただの押しつけになってしまいます。 人に勇気と希望をもたらす福音の言葉は、深い祈りの心に基づいています。祈りを失えば、言葉は冷えていくばかりです。ホレンコの働きを通して、この喜びの言葉が伝えられていくように、まずわたしたちが祈りましょう。 |
ホレンコの友 2018年1月号 「You もあ 一年」 日本キリスト教会 札幌桑園教会牧師 河野行秀 皆さん、新年おめでとうございます。 「今年こそは!」と意気込んでおられることでしょう。わたしも、今年は何をしようかと考えています。しかし、何しろ歳でもあります。もう世界冒険旅行もできないし、ヘブライ語を身につけることもできない。酒、たばこをやめて体重を減らすという努力はしなくてもよさそうですが、身長を1センチ延ばすことはもうできない。高額納税者にはなれそうもないし、メガ・チャーチ建築の夢は消えてきました。つまるところ、今年も平凡な年になりそうです。「主の御心であれば、生きながらえて、あのことやこのことをしよう」(ヤコブ4:15)と、言うことになるのでしょう。 たとえそうであっても、前に向かって進まなくてはなりません。小さな作品であっても、完成させることは喜びであります。大きなことはできないけれど、小さなことでも積み重ねれば山となります。一年、一年の積み重ねです。あなたも、主のためにもう一年何かやってみませんか。 課題は日本の伝道です。日本の教会は伝道の力を失いつつあります。信徒は減少し、教勢は低下しています。原因を少子高齢化にするのは言い訳です。牧師も信徒も情熱がなくなっているからではないでしょうか。「キリスト教は、パレスチナで情熱として始まった」と、言った人がいます。復活の信仰は情熱の信仰です。東方教会はイースター礼拝で、司祭が「主はよみがえられた」と宣言すると、会衆が高笑いをするという話を聞いたことがあります。「イースターの高笑い」と言うのだそうです。死が勝利に呑み込まれた笑いです。 この一年、やるべきことは「キリストの十字架と復活」からくる、希望と愛と忍耐と勇気を、信仰をもって情熱を込め語ることでしょう。そのためにはネクラにならず、ユーモアが必要です。わたしは教会員に「暗い顔をしないでほしい。ビジネス・スマイルでもいいから少し笑ったら」と言われたことがあります。そこで、今年の目標はユーモア研究です。皆さんの中に、だれか吉本興業で宣教学を学ぶ人が現れるといいですね。インドネシアから学びに来た牧師がいるそうですよ。バルトは「神学とは喜びの学問である」と言いました。ボーレンは「説教は遊びのようにうちこめる」と言いました。 今年も、「アーメン。ハレルヤ」と声高らに歌いましょう。雨もやみ、心の闇も晴れるでしょう。 「ちいさな籠に花を入れ、さびしい人にあげたなら、部屋に香り満ち溢れ、くらい胸もはれるでしょう。」(讃美歌U26) You more 一年! |