ホレンコ12月号

    「飼葉桶のにおい」日本キリスト教団札幌北部教会牧師 久世そらち

 幼い頃、札幌の月寒のはずれに住んでいました。今はすっかり住宅地になっていますが、その頃はまだ牧草地が広がっていました。牧場に一升瓶をもっていくと、しぼりたての牛乳を売ってくれます。親に手をひかれて牛乳を買いに行き、牛舎をのぞくのが楽しみでした。その牧場はとっくになくなっていますが、今もどこかの牧場を訪れて牧草と糞のにおいがまじった牛舎のにおいをかぐと、あの木造の牛舎のあたたかさばかりでなく、幼い頃のなつかしくも満たされた心持ちまでもくっきりと思い出されます。
クリスマスの情景で、赤ちゃんのイエスさまは、飼葉桶に寝かされます。ルカ福音書2章7節には、幼子イエスを布にくるんで飼葉桶に寝かせたということが記されていますが、その飼葉桶がどこにあったのかは明記されていません。よく「キリストは馬小屋で生まれた」と言われますが、聖書には馬小屋とは書いてありません。当時の生活を考えると、馬よりもむしろ羊や牛のような農家の家畜のための飼葉桶だったと考えられます。
当時、庶民の赤ちゃんは、おむつと肌着と布団を兼ねた一枚の布にくるまれて育てられました。布には赤ちゃんの汗や飲みこぼしたお乳、そしておしっこやうんちのにおいがしみついていたことでしょう。布にくるまれて飼葉桶に寝かされた幼子イエスは、きっとあの牛舎のように、独特のにおいに包まれていたはずです。
ルカ福音書によれば、救い主の誕生を最初に知らされたのは、街の外で仕事をしていた羊飼いたちでした。街場の人たちからは低く見られていた貧しい羊飼いたちは、天使に告げられて飼葉桶の中の幼子を探しあてました。飼葉桶は、羊飼いたちにはなじみの道具です。その中に寝かされている赤ちゃんが、自分たちと同じにおいに包まれていることに、彼らはすぐ気づいたことでしょう。
「布にくるまって、飼葉桶の中に寝ている乳飲み子」(ルカ2:12)こそは、羊飼いたちへの救いのしるしでした。羊飼いたちは、自分たちの仲間として、自分たちと同じにおいのする赤ちゃんを見出したのです。それは、彼らにとって、ほっと心満たす出会いだったのではないでしょうか。
主イエス・キリストは、今もわたしたちの仲間として、同じにおいの中においでくださるでしょう。たとえそれが人からさげすまれ退けられるようなにおいであったとしても。  


ホレンコ11月号

  「試練を喜ぶ(ヤコブ 1:2〜8)」  日本基督改革派 札幌教会牧師 貫洞賢次

「わたしの兄弟たち、いろいろな試練に出会うときは、この上ない喜びと思いなさい。」(ヤコブ1:2)喜べと言われても、単純に喜べないのが試練です。では、どうやって試練を喜べるというのでしょうか。
「あくまでも忍耐しなさい」(1:4)と続いています。そして、その忍耐には約束が伴っています。「そうすれば、完全で申し分なく、何一つ欠けたところのない人になります。」(1:4)信仰の試練は神様と共に立ち向かう試練です。もちろん、自分の試練ですから、自分に代わってほかの人に苦しんだり悩んだりしてもらうわけにはいきません。その意味ではやはり孤独を感じますが、その本質において、信仰の試練は孤独ではありません。試されているのは、神様と自分との関係だからです。もっとそれが確かで、豊かなものとなるために。
ヨブがその試練の中で忍耐していたとき、妻も友人たちも彼を理解してくれませんでした。その意味で、とても孤独でした。しかし、それでも、ヨブは神様を求め続けます。「わたしが話しかけたいのは全能者なのだ。わたしは神に向かって申し立てたい。」(ヨブ13:3)どんなに試みられても、求め続けることのできる神様がいつも彼の前におられます。
さらにこうも約束されています。「あなたがたの中で知恵の欠けている人がいれば、だれにでも惜しみなくとがめだてしないでお与えになる神に願いなさい。そうすれば、与えられます。」(1:5)ここでいう「知恵」とは何でしょうか。「主を畏れることは知恵の初め」と教えられています。(箴言1:7)知恵とは、まず第一に主なる神をますます正しく知って畏れることであり、信頼することです。
これはたいへんな回り道のように思われます。試練を抜け出す道を早々に知りたいと思うのが、人の素直な思いでしょう。しかし、ご自身の民に対して、主はこう言われました。「お前たちは、立ち帰って静かにしているならば救われる。安らかに信頼していることにこそ力がある。」(イザ30:15)「立ち帰って静かにしている」とは、何もしないということではありません。神様を求め続けて、その御心にかなう「あのこと、このこと」を行い続けます。そのようにして、試練の中でこそ、新たに神様を喜ぶことで日々支えられながら、救いを待ち望みます。
「だれにでも惜しみなくとがめだてしないでお与えになる神」が、試練の中で私たちを一歩一歩教え導いてくださいます。神様が与えたもうた試練なら、必ずその苦しみと悩みには深い意味があり、たどり着くべきゴールがあります。

ホレンコ10月号

     「サルにもらったキャラメル」  キリスト兄弟団 旭川栄光教会牧師  笹川 洋史


あなたは見ておられました。労苦と苦痛をじっと見つめておられました。それを御手の中に収めるために。不幸な人はあなたに身をゆだねます。詩篇10:14

9月6日に、北海道胆振東部地震が起きて、北海道中が停電してしまう非常事態になりました。大きな被害もありました。今も困難を覚えておられる方々のために、お祈りさせていただきます。

違いがわかるチンパンジー 元上野動物園の園長の中川志郎さんが、駆け出しの飼育係だった時の話です。
戦後まもなくの上野動物園では、チンパンジーのスージーが人気者でした。スージーは、舞台に出る途中に10円をもらい、売店に行って、10円を差し出し、キャラメルをせがむようになりました。そのキャラメルは、自分のものであることを主張して、他人にはなかなかくれなかったそうです。
飼育係が、どんなお世辞を使っても、たちまち見抜かれてしまうのです。ところが、就職して2年目、しかもまだ臨時職員の中川さんに、スージーがキャラメルを渡しました。
当時の中川さんは、動物園の中の独身寮に住んでいて、身軽に、毎晩のようにスージーを訪問し、時間を過ごしていました。チンパンジーは、本来群れで生活しています。単独で生活するのには、精神的につらいものがあるだろうと思っての訪問でした。この通い続けたことの評価が、このキャラメルでした。
チンパンジーなのに、よくぞしっかり違いを見ていたものだ、と言いたくなるような心温まるエピソードです。

すべてがわかっている神
「あなたは見ておられました」とあります。私たちのすべてをしっかり見ていてくださるのが、聖書の神です。
人間が見逃してしまうことがあっても、神が見逃すことはありません。人には、誤解されるようなことがあっても、神は、表面に見えることだけではなく、その心の動機までも見てくださり、わかってくださいます。ですから、その神に安心して、「労苦と苦痛」を訴えることができるのです。

わかっていない自分自身のために
自分のことが、よくわかっていないのが、人間です。思うように進まない時、力のない自分を知って失望してしまいます。「御手の中に収める」神が、その弱さを受け止めてくださいます。スージーのキャラメルではありませんが、神が知ってくださったならば、すばらしい神の助けが与えられます。それは、大きな励ましです。
本当に心配し、愛し、ふさわしい助けを与えようとしてくださっている神がおられます。このお方に、自分自身をゆだねて、安心して、今日も歩んでいきましょう。

ホレンコ9月

        「からし種一粒の信仰」  ルカによる福音書17章5〜10節) 日本聖公会 司祭 上平仁志

 イエス様は「からし種一粒の信仰」でも本物の信仰があれば奇跡さえ起こると言われています。福音書の中で、イエス様はこのように「からし種一粒」を信仰の力や神の国の広がりに譬えておられます。(マタイ13:31他)。辞典によると、これは「クロガラシ」の種を指すと言われています。
ところで、イエス様がこの譬えをお話になったきっかけは、使徒たちが「わたしどもの信仰を増してください」とお願いしたからであります。それに対してイエス様は「もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に『抜け出して海に根を下ろせ』と言っても、言うことを聞くだろう」と言われています。マタイやマルコの記事では、「この山に向かい『海に飛び込め』と命じても、そのとおりになるだろう」という言い方をしています。
からし種一粒ほどの信仰でも本物の信仰がほしいと思います。いずれにしても、イエス様がこのような譬えをお話になった意味は、普通、わたしたちが常識で考えられないと思うことも本物の信仰があれば可能になると言うのであります。病気や障害、辛い思いをする困難の多い人生ですから信仰がなければ生きていけないと思うのですが、どうすれば本物の信仰を持つことができるのでしょうか。
さて、ここで「使徒たち」(弟子たち)は「わたしどもの信仰を増してください」とお願いしています。よく、「あの方は信仰が深いが、わたしは弱いんです」と言ったりしますが、信仰を増すとはどんな意味があるんでしょうか。もともとは「かたわらに」「置く」という言葉の合成語ですが、文字通り、すでに持っている賜物に「信仰も追加して下さい」という意味になります。
しかし、この場合「わたしどもの信仰を増してください」と言っているのは使徒たちですから、既に「信仰をもっている者がその信仰をもっと強くするために、『増し加えてください』とお願いしているのであります。
ところが、イエス様のお返事は「信仰を増し加えてください」という使徒たちのお願いとかみあっていないように思います。すなわち「からし種一粒ほどの信仰」があれば、この桑の木に命じて、「抜け出して海に根を下ろせ」と言ってもそのとおりになるとおっしゃっているのです。つまり、イエス様は、あなたがたは信仰を持っていないと言われたのです。
信仰は量の問題ではなくて「質の問題」です。「から種一粒ほど」の信仰でも、それが本物ならば不可能なことも可能になると言っておられるのです。

ホレンコ8月号

    『通信講座に導かれて 』                                     

                   日本キリスト教団 小栗昭夫

3月末日をもって45年間の牧会生活を終え、引退いたしました。初任地は美しい羊蹄山を見渡せる洞爺湖湖畔に建てられた小さな教会に28歳の年に単身赴任してきました。神学校を修了したその足で来ましたので、牧会経験の全くないまま、「主任・担任教師」としての働きに入りました。未熟さの故にたくさんの失敗や迷惑をかけてきました。その後、結婚した翌年に小樽に赴任して来ました。今では4人の息子、娘たちが与えられ、6人の孫たちが与えられました。しかし子どもたちに言わせれば、たとえ45年間北海道で暮らしていても、「そだねぇー」と言おうが、「○○でないかい」と言おうが、本物の「道産子」には成り切れていないそうです。初代は、そんなものかと思います。ならば、浅草に本籍をもっていた江戸っ子として、遠山の金四郎や勝海舟のようにべらんめえ調でしゃべれるか、というと、もうそれも上手くはできません。
そんな人生を振り返りながら、自分が初めて意識的にキリスト教に触れた頃のことを思い起こしていました。あれは中学2年生の後半。真夜中まで続く勉強に疲れて、気分転換に机上の小さなラジオのスイッチを入れると、賛美歌が流れてきました。題名は全く覚えていませんが、心に染み入るメロディーであったことは確かでした。思わず耳を傾けて聞き入りました。その時に語られたメッセージも覚えてはいませんが、最後に「聖書通信講座」があるから、希望者はお葉書を下さい、との案内があり、急いで宛名をメモし翌朝投函しました。
興味いっぱいの通信講座でしたが、最初のころは、必ずと言ってよいほど「頭で理解しようとせず、心で感じ取ることを大切にして読んでみましょう」との添削文が付いていました。よっぽど理屈ぽい人間だったようです。そのうち、「信仰生活は教会生活を通して育まれますので、是非、お近くの教会を訪問してみましょう」との勧めのことばがあり、紹介されたのが徒歩5,6分のところにあった「日本キリスト教団 霊南坂教会」でした。このように、初めて意識的にキリスト教に触れたのが「ラジオ伝道」だったことは、本当に奇すしき主のご摂理だったのでしょう。なぜなら、引退した今、同じラジオ伝道を働きとしている「ホレンコ」の幹事としてご奉仕させて頂いているのですから・・。
こうした個人的なささやかな経験ですが、「ホレンコ」の放送に耳を傾けて下さる中にもきっと同じような出会いの経験者も与えられるかも知れない、と願いつつ、来年、いよいよ60周年を迎えるホレンコの働きに感謝と希望を持って携わらせて頂いている日々であります。皆さまのお支え、ご協力を心から感謝致します。(ホレンコ幹事長)


ホレンコ7月号  

          『喜びの賛歌』              
                            バプテスト宣教団:コイノニアキリスト教会牧師 平吹貞夫
                    

「1全地よ。主に向かって喜びの声をあげよ。2 喜びをもって主に仕えよ。喜び歌いつつ御前に来たれ。3 知れ。主こそ神。主が、私たちを造られた。私たちは主のもの、主の民、その牧場の羊である。4 感謝しつつ、主の門に、賛美しつつ、その大庭に、はいれ。主に感謝し、御名をほめたたえよ。5 主はいつくしみ深くその恵みはとこしえまで、その真実は代々に至る 」 (詩篇100篇)

 この詩篇100篇は、神殿に会衆が入場するときに歌われたものだと言われています。前半の1節から3節は神殿に向かう神の民たちによって賛美され、後半の4節5節は、神殿側の迎える賛歌で、先に天国へ招き入れられた信仰の先人たちが、賛美をもって迎えてくれる賛歌です。主によって天へ迎え入れられることは、最高の「喜び」であり、何よりも「感謝」なことです。
主の門で、私たちを迎えてくれる信仰の先人たちは、「主はいつくしみ深くその恵みはとこしえまで、その真実は代々に至る」ことを既に味わっている人々です。彼らは、主の素晴らしさを賛美しつつ、私たちを迎えてくれるのです。それは、キリストであられるイエス様が「聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書に従って三日目によみがえられたこと」(Tコリント15:3−4)を信じる者たちに与えてくださる完全な罪からの救いの時であり、死からのよみがえりを味わう時です。
「全地」が、「主に向かって喜びの声をあげる」時がきます。その喜びは、決して変わることがなく、信じる者と共にあり続け、主を礼拝するために招き迎えてくださる時です。その「喜び」の源は、主の民として天に迎え入れてくださると言うことにあります。
私たちは、やがてこの地上の営みを終え、天に迎えられます。それは、全てのわざわいから解放される時、神を礼拝する民として永遠のいのちを喜び楽しみ共に生きる時です。
イエス様は、私たちを天に迎えてくださる準備をしてくださっておられます。イエス様は「あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたをわたしのもとに迎えます」(ヨハネ14:3)と約束してくださいました。ですから、その日を待ち望み、この主の決して変わることのない約束を感謝しつつ、主の門で、私たちを迎えてくれる信仰の先人たちとの再会を楽しみに、与えられた人生を歩ませて頂きましょう。「やがて、天にて喜び楽しまん。きみに目見えて勝ち歌を歌わん」(聖歌638番)との賛美を胸に。


ホレンコの友6月号

      『それにもまさる喜びを』

                           日本キリスト教団月寒教会牧師 石垣弘毅

 

今、街はサクラが満開です。春の青空の中に淡いピンク色の花が美しく輝き、ほのかに甘い香りが漂います。神が創造された美しい世界、それが私を喜ばせます。
身の周りに色々な喜びを発見します。子どもが誕生する喜び、美味しい食事を味わう喜び、進学や就職する喜び、健康が与えられている喜び、家族や友人関係が満たされている喜び、事業が成功する喜びなどなど。そんな喜びを色々と思い巡らし、見つける事は楽しい事です。
しかし一方で、悲しい現実もあります。家族関係が崩壊する悲しみ、愛する人と死別する悲しみ、就職や事業に失敗する悲しみ、健康を失い、豊かな暮らしが崩壊する悲しみ、などなど。そんな悲しみを色々と思い巡らすと、心は辛く苦しくなります。
これらの対極の現実を前に聖書の言葉を開きましょう。

     人々は麦とぶどうを豊かに取り入れて喜びます。
それにもまさる喜びをわたしの心にお与えください。
平和のうちに身を横たえ、わたしは眠ります。  (詩編4編8〜9a節)

この世で私たちが体験する喜びも悲しみも、ため息のように消え去ります。私たちの存在も名前も、200年もすれば、誰も覚えていないでしょう。そんな私たちに神は決して消え去らず滅びる事のない「それにもまさる喜び」を与えてくださいます。
私たちが喜びの中にいる時はもちろんのこと、悲しむ時も苦しむ時も、どんな時にも神は共に歩んでくださいます。最悪の出来事である「死」でさえも、この喜びを奪うことは出来ません。なぜなら、聖書が示す通り、私たちの神であり、人として生まれてくださったお方、イエス・キリストは十字架上で死なれましたが、その3日後に復活し、弟子たちの前にそのお姿を現してくださったからです。この出来事が示す事は「死」は終わりではなく、復活のいのちにつながる確かな希望であるこということです。
だから神に祈りましょう。「それにもまさる喜びをわたしの心にお与えください」。
そして、安心して眠りましょう。毎日、毎日。やがて本当に最後の眠りにつく日が来ます。その日が来たら喜びましょう。なぜなら、その眠りから覚める時、私たちは復活のキリストと、そして死別した愛する人々との再会の喜びを目の当たりにするからです。
それにもまさる喜びと平安を神がみなさん一人一人に豊かに与えてくださいますように。

ホレンコの友5月号   「春」     

                    日本バプテスト同盟:札幌北野キリスト教会牧師 岡口 学

時は春、日は朝、朝は七時、片岡に露みちて、揚雲雀(あげひばり)なのりいで、蝸牛(かたつむり)枝に這ひ、神、そらに知ろしめす。すべて世は事も無し。(ロバート・ブラウニング「春の朝」/上田敏訳)
雪と氷の冬は、白く美しいものですが、命の力は暖かな春に動き出します。ロバート・ブラウニングの「春の朝」は、春の暖かさの中で生き物たちが活き活きと、そして平和に過ごす情景を感じさせます。しかし、この詩は楽観主義的な自然賛歌ではありません。この詩は元々は「ピッパが通る(Pippa passes)」という物語の一部です。「春の朝」が歌われている場面は、オッティマとセバルトという男女が、不倫の末、オッティマの夫ルカを殺害したことを自己正当化しているという、穏やかならざる場面です。ピッパという少女は、年に一度の大事な休日(新年)を喜んで過ごそうと、神様を賛美しながら町を歩いていたのでした。窓から聞こえてくる賛美の声を聞いた二人は、神様によって素晴らしい世界と春の時が与えられているにも関わらず、自分たちが悲惨な罪の深みの只中にいることに気付かされます。「神、そらに知ろしめす。すべて世は事も無し」は原文では"God's in his heaven All's right with the world"です。神様は私達の目には見えないけれども、確かに天におられる、だから世界の全ては上手くいくのだ、という意味です。物語の始めにあるピッパの長い独白では、彼女が純真無垢な幼子ではなく、自分自身を含む社会に起きている問題に気付き悩みながら、前向きに生きようとしている人物として描かれています。

 「はっきり言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている。
はっきり言っておく。死んだ者が神の子の声を聞く時が来る。今やその時である。その声を聞いた者は生きる。(ヨハネ福音書5章24-25節)」

冬の寒さが厳しく、長く感じられるとしても、必ず春は訪れるものです。土の中から種が芽を出すように、動物たちが冬ごもりの巣穴から飛び出してくるように、冬には息を潜めていた生き物たちは、活き活きと動き始めることが出来るように、人間もまた過ちや失敗、あらゆる罪深さといった冬の時を超えて、新しい季節を活き活きと生きることが出来ます。春の暖かな日差しが、生き物たちに新しい季節を知らせるように、神様の言葉は私達に新しい恵みの時、喜びの季節を、知らせているのです。

ホレンコの友4月号
       「ワンライン」

                           基督兄弟団 札幌栄光教会牧師 上野謙一

連日熱戦が繰り広げられた平昌オリンピックが閉幕しました。日本のメダル獲得数が冬期オリンピックとしては史上最多の13個ということもあってか、未だ興奮が冷めやらぬ状況にあります。皆さんの記憶にも感動とともに深く刻まれた場面が数々あることでしょう。その中からベストのワンシーンを選ぶとしたら、皆さんはどれを挙げられるでしょうか。
私は金メダルを獲得した女子団体パシュートの決勝を挙げたいと思います。その相手はスケート王国オランダで、選手四人のうち三人が今回、中長距離のメダリストとなりました。その個の力は圧倒的で、準々決勝ではオリンピックレコードを叩き出してもいました。一方の日本はと言うと、それに太刀打ちできる自己ベストタイムを持っているのは、銀と銅のメダルを獲得していた高木美帆選手だけという状況でした。
では、なぜその劣勢を覆し、日本はオランダに勝つことができたのか。その勝因は「ワンライン」にありました。それは出場する選手三人が常に一直線状に隊列を組み、しかも数十センチの間隔を保ちながら氷上を滑ることを意味しています。それによって二番目、三番目の選手への空気抵抗をより小さくすることができます。また、タイムロスが起こり易い先頭の交代を最小限の三回に抑え、僅か4秒で終える―――オランダは7秒―――ことによって個々の体力を温存し、高速を維持することができるのです。その効果は絶大でした。決勝はオランダに1秒59の差をつけ、オリンピックレコードも塗り替える2分53秒89でのゴールとなったのです。
そのシーンを振り返るうちに、霊的な戦いの渦中にある私たちクリスチャンの勝利にも、これは通じるのではないかとの考えが私の脳裏に浮かんできました。
教会はイエス・キリストとその十字架を先頭にし、ともにその背後にあって「ワンライン」で進むチームであると言えるでしょう。「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。」(ガラテヤ2:20)とありますが、ここにキリストとの霊的な「ワンライン」を見ることができます。信仰によって、その効果を互いに分かち合いながら、朽ちない栄冠を目指しての前進を続けてまいりましょう。(ホレンコ幹事)

ホレンコの友3月号
 「3ゆの恵みに生かされて」
      日本イエス・キリスト教団 幌向小羊教会牧師 飯田勝彦  

 数年前、ある牧師から「『ゆっくり、ゆったり、ゆたかに』、これを『3ゆの恵み』と言う」と聞いたことがあります。
 キリスト者は、十字架と復活の豊かな救いの恵みによって、焦らず、余裕をもって、豊かな人生を過ごせる人生に招かれているんだと思わされました。それ以来、「3ゆの恵み」を折々に確認しています。
 しかし、私たちの日常はいつも急いでおり、余裕がなく、何か満たされない思いをもって過ごすことが多いのではないでしょうか。 確かに、私たちは恵みと真に満ちたキリストの内に招かれ神様の測り知れない愛の御手に守られています。しかし、それを実体験するには私たちの側も自分の「心を守(箴言4:23)」るように努める必要があり、その秘訣は神様の前に静まることだと思います。
 私たちはみな、1日24時間が与えられています。その中でどれだけ自分の心を神様だけに向かわせているでしょうか。「わたしの魂よ、沈黙して、ただ神に向かえ。神にのみ、わたしは希望をおいている。」(詩編62:6)とあるように、自分の魂を神に向かわせ、神だけに想いを馳せ、神様だけから教えられ、慰められ、励まされ、養われることが必要です。
 「分かっているけど、忙しいから〜」という声が聞こえてきそうです。終わりの時代は、悪魔も躍起になって私たちの心を神様から離そうとしてきます。忙しいとは「心を亡くす」と言われますが、「心を亡くす」とはどういうことでしょうか。 それは「人間性を失う」ということではないでしょうか?

  十字架と復活によって回復された本来の人間性、キリストにあって「ゆっくり、ゆったり、ゆたかに」生きていける本来の人間性を神様の助けによって守ることが不可欠です。
そのためには、神様の前に静まることを生活の最優先事項に置くことです。私が救われて間もないとき「祈る時間、聖書を読む時間がありません」と宣教師に言いました。すると「神様に待ちぼうけを食らわせてはいけませんよ。

 神様は、あなたと交わりたいと待っておられるのです」と言われました。 神様は私たちがキリストにあって「ゆっくり、ゆったり、ゆたかに」歩む人生を心から応援して下さっています。私たちの一番の応援者である神様の前に静まりましょう。
 世間は何かを「やる」ことに価値や生産性を見出し、静まることは「意味のないこと」と思いがちです。
 しかし、キリスト者にとって神様の前に静まることこそが、最も価値があり意味あることではないでしょうか。
 神様の前に静まり心守られてこそ「ゆっくり、ゆったり、ゆたかに」過ごすことができるのです。そして、そのような姿が世の光、キリストの証人としての歩みにつながって行くのです。
 あなたは神様の前に「いつ、どこで、どのように」静まりますか?
3ゆの恵みに生かされましょう!

 「静まって、わたしこそ神であることを知れ。わたしはもろもろの国民のうちにあがめられ、全地にあがめられる」(詩編46:10)

ホレンコの友 2018年2月号
    「勇気と希望をもたらす言葉」
ルカによる福音書19章1〜10節
日本キリスト教団 旭川六条教会牧師・和寒伝道所代務者 西岡昌一郎

ザアカイは、いちじく桑の木の上に登って、その下をイエスとその一行が通り過ぎるのを見物していました。ザアカイは背が低かったので、路上では他の見物人にさえぎられてイエスを見ることができなかったからです(3節)。彼は自分の居場所がなくて、木の上に登っていたのです。これはユーモラスな姿に見えますが、本当は悲しい姿です。
イエスは、そのザアカイを見上げて言いました。「今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい」(5節)。思いがけないイエスの言葉に、ザアカイは喜んでイエスを迎え入れました。「ぜひあなたの家に泊まりたい」という言葉は、ザアカイにとっては、自分が必要とされていることを実感させてくれる言葉でした。
このように、イエスの言葉には、絶えず福音という喜びのメッセージが含まれています。
それは、きょう、ここに、あなたがいてくれなければ、お互いに成り立たないのだというメッセージです。この言葉を必要としている人が、この世にはどれだけ多くいることでしょう。
「それはたった一人からでいい。『あなたはわたしにとって、なくてはならない存在なのだ』と言われたら、もうそれだけで喜んで生きていけるのではないだろうか」。(三浦綾子)
わたしたちが伝える福音のメッセージは、ここにあります。「あなたは、わたしの愛する子」と神さまは言ってくださいます。「あなたは、なくてはならない存在なのです」と語りかける主の喜ばしい知らせを伝えるのが教会の役割です。
愛が冷え、心に傷を与える言葉があふれています。教会もまた、いつの間にか、この風潮に流されています。人を励まし勇気づける言葉、希望を見出す言葉が必要なのです。
自分でほんとうに喜んでもいないことが、人に伝わることなどありません。どんなに「正しく」「間違いがない」信仰であったとしても、自分が喜んでいないものを誰が喜んで受け止めるでしょうか。そんな「正しさ」を伝えようとすると、独り善がりか、ただの押しつけになってしまいます。
人に勇気と希望をもたらす福音の言葉は、深い祈りの心に基づいています。祈りを失えば、言葉は冷えていくばかりです。ホレンコの働きを通して、この喜びの言葉が伝えられていくように、まずわたしたちが祈りましょう。
ホレンコの友 2018年1月号
      「You もあ 一年」          
日本キリスト教会 札幌桑園教会牧師 河野行秀

皆さん、新年おめでとうございます。
「今年こそは!」と意気込んでおられることでしょう。わたしも、今年は何をしようかと考えています。しかし、何しろ歳でもあります。もう世界冒険旅行もできないし、ヘブライ語を身につけることもできない。酒、たばこをやめて体重を減らすという努力はしなくてもよさそうですが、身長を1センチ延ばすことはもうできない。高額納税者にはなれそうもないし、メガ・チャーチ建築の夢は消えてきました。つまるところ、今年も平凡な年になりそうです。「主の御心であれば、生きながらえて、あのことやこのことをしよう」(ヤコブ4:15)と、言うことになるのでしょう。
たとえそうであっても、前に向かって進まなくてはなりません。小さな作品であっても、完成させることは喜びであります。大きなことはできないけれど、小さなことでも積み重ねれば山となります。一年、一年の積み重ねです。あなたも、主のためにもう一年何かやってみませんか。
課題は日本の伝道です。日本の教会は伝道の力を失いつつあります。信徒は減少し、教勢は低下しています。原因を少子高齢化にするのは言い訳です。牧師も信徒も情熱がなくなっているからではないでしょうか。「キリスト教は、パレスチナで情熱として始まった」と、言った人がいます。復活の信仰は情熱の信仰です。東方教会はイースター礼拝で、司祭が「主はよみがえられた」と宣言すると、会衆が高笑いをするという話を聞いたことがあります。「イースターの高笑い」と言うのだそうです。死が勝利に呑み込まれた笑いです。
この一年、やるべきことは「キリストの十字架と復活」からくる、希望と愛と忍耐と勇気を、信仰をもって情熱を込め語ることでしょう。そのためにはネクラにならず、ユーモアが必要です。わたしは教会員に「暗い顔をしないでほしい。ビジネス・スマイルでもいいから少し笑ったら」と言われたことがあります。そこで、今年の目標はユーモア研究です。皆さんの中に、だれか吉本興業で宣教学を学ぶ人が現れるといいですね。インドネシアから学びに来た牧師がいるそうですよ。バルトは「神学とは喜びの学問である」と言いました。ボーレンは「説教は遊びのようにうちこめる」と言いました。
今年も、「アーメン。ハレルヤ」と声高らに歌いましょう。雨もやみ、心の闇も晴れるでしょう。
「ちいさな籠に花を入れ、さびしい人にあげたなら、部屋に香り満ち溢れ、くらい胸もはれるでしょう。」(讃美歌U26)
You more 一年!