ホレンコの友 2020年2月号 「転んでも」
 
        日本キリスト教団 十二使徒教会牧師 坐間 豊

転びました。ツルッ。新年早々。町内の人に見られていたので、クルリン。こまねずみののように鮮やかにお見せしました。(拍手!) 
 人生ままならないことがあります。悩みも尽きません。避けられないとしたら、せめてそんなときにもジタバタしないで、できればさわやかにやり抜ければなあ。
 聖書に登場するパウロという人は、当時、会ったことのある人にこう言われています:「会ってみると、聞いていたのとは違って、弱々しく、話しもつまらない」。パウロには、予想外の評価だったでしょう。低く見られたというよりも、彼が伝えたかったのは神様のお言葉です。自分のことはどうでもよかったのです。だから、自分の務めを精一杯果たせばあとは神様にお委ねして平安です。それでパウロはあらぬ中傷など気にせず、「主のみを誇り、栄光を神様にのみ帰す」のでした。
 さわやかです。カッコいいです。ほれぼれ。 教会のいいところはこれ。辛く苦しいことや思いどおりでないことがあったり、なんで私だけがこんな目に遭うの?と思えたりするときに、それでもうちひしがれず、前向きに歩んでいく人を見られます。その人には神様への思いがいっぱいです。信頼、安心、平安。身を任せる姿に余裕さえ。ぐちや不平でなく、賛美や感謝が口からあふれます。
 思えば、これまでどれだけ転んで来たか。歩行転倒だけでなく、やり直そうと心に決めながらも、実行できずに転んだことの数々。教会に初めて行ったときも、途中まで行きながら、「止めた。次にしよう」という転び。そんな繰り返しをして、ある時ハッと気付かされた:「結局、いつもそうやって、『またにしよう』だ。『次』なんて絶対こないまま一生終わるんだね。」
 そこで、勇気を出して、教会に足を運ぶ人たちの群にわが身を委ねました。自然に教会
へ入りました。自然にみ言葉を聞きました。自然に賛美を合わせました。自然にお祈りに加わりました。自分の中で引っかかっていた何かが外れました。
 もっと早くイエス様を知っていたらとも思いますが、「キリストが今、私の内に生きておられる」とたしかに信じ、喜べるので感謝がすべてに先立ちます。
転びそうになっても、イエス様が共にいて私を生かして下さるので心配していません。たとえ転んでも、堂々とイエス様を指し示し、すべてを最善へと導いて下さる神様の恵みに感謝します。そんな生き方になるのです。
「生きているのは、もはや私ではありません。キリストが私の内に生きておられるのです。」
 (新約・ガラテヤの信徒への手紙2章20節)

ホレンコの友 2020年1月号

                  「今年こそ。いや、今日こそは」

                           日本キリスト教団札幌北光教会伝道師 野田 祥

「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」 (マタイによる福音書6章33節〜34節)

イエス様は、何を食べ、何を飲むか、また何を着ようかと、思い悩むなと言いました(25節)。あなたたちがこれらを必要としていることは神さまが知っていると(32節)。決して裕福な暮らしをしていたとは言えないイエス様が、神さまへの絶対の信頼を置いていることが伺えます。
しかし、現実はどうでしょうか。イエス様が生きていた時代においても現代においてもそうですが、衣食住が十分でない生活を強いられている人々は大勢います。だれから強いられているのか。それは、人間によって、です。人間は自分だけの欲望を優先させ、暴走させて、必要以上を求めるものです。そうして、本当にそれを必要としている人の分まで奪い取っている現実が今も昔もあります。イエス様は決して、現状を、「神さまが与えて下さるから大丈夫」と楽観視していたのではないと思います。むしろ、神さまは必要なものを備え、与えて下さるはずなのに、人は他者の必要なものを奪い取っているという、現実の狭間の中で苦しんでいたのではないでしょうか。「何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようか」という悩みは、数ある選択肢の中から悩むのではありません。そもそも、物が無いのです。今日を生きて行くための食糧が無い、今日を快適に過ごすための着るものがない、そういう思い悩みです。
では、イエス様が、こういったことを思い悩むな、と言った本当の意味は何でしょうか。物が無いことを悩むのは当たり前です。一人一人の生きること、命にかかわることなのですから。しかしイエス様は、本当に悩むべきことについて、次のように言うのです。「その日の苦労は、その日だけで十分である」。「苦労」と翻訳されているギリシア語は、悪、悪事、という意味もあります。本当に悩むべきなのは、必要なものを奪うような悪事や悪意です。それらが正されてようやく、だれもが生活に困ることの無い毎日を過ごす事ができるのではないでしょうか。「その日の悪は、その日だけで十分である」という言葉には、社会の中で苦しめられている人々の叫びをイエス様が共に挙げていることが現れています。「悪さをする奴らは、今日を限りにやめてほしい」。そのように聞こえるのです。

 世界には、わたしたちの身近なところでは、未解決の問題が山ほどあります。その問題の一つひとつには見える悪意、見えざる悪意が複雑に絡み合っています。そういう社会の中にあって、神の義が為される世界、つまり、神の国を求め続けたいのです。必要なものをご存じである神さまの正しさが行き渡る世界に、今年こそ、いや、今日こそ実現して欲しい。復活のイエス様は、時を越えて今日も叫んでいます。