ホレンコの友 12月号  「静寂の中で迎えるクリスマス」
               日本聖公会北海道教区 主教 植松 誠

想像もしなかったコロナ禍での生活が始まってから10か月近くなり、そんな中で迎えようとしているクリスマスは、私たちにとってどのような喜びの日となるのでしょうか。コロナ禍によって今までよりももっとはっきり表面化してきた世の中の闇の部分。食べるにも事欠く貧困、特に子どもたち。病気、孤独、虐待、心の病の重症化・・・などなど。幸せを感じられない人々がなんと多くおられることか、笑顔がマスクで覆われたように、おおらかに笑えなくなった子どもたちがなんと多くいることでしょうか。
この10年、地震や災害のために愛する人や生活のすべてを失った人々にとって、それまでのなんの変哲もないあたりまえの暮らしがいかに尊いものであったかを耳にしてきました。私たちは今このコロナ禍で少しはそのことを経験するところとなりました。
今年のクリスマスはきっと街中も例年よりは静かに過ぎていくことでしょう。おそらく教会も、楽しい愛餐会や出し物もなく、礼拝を守ることが精一杯となるのではないでしょうか。それはある面、とても寂しいことではありますが、今いろいろな状況の中におられる方々を思うとき、どちらかというと、私はそのような静寂の中でクリスマスを迎えることを期待しているようにも感じます。
キリストの誕生は、人々の苦しみの真っ只中に起こりました。キリストの母となるマリアにとっては、天使のお告げを信じながらも、身を隠したいほどの悲惨な現実を受け入れなければならない状況でした。馬小屋での出産後、キリストの母となったマリアは神殿でシメオンに告げられます。「あなた自身も剣で心を刺し貫かれます」と。(ルカ2:35) 最新の共同訳では「剣があなたの魂さえも刺し貫くでしょう」とあります。マリアの「お言葉どおり、この身になりますように」という祈りに対して、魂さえも刺し貫かれる・・・というのはあまりにも厳しいお告げでした。しかしそれは、全人類の救いのためになされる神の業が、すべての人々の「光」となることを、闇の中でこそ実現できるという予告だったのではないかと思います。今年のクリスマスは、静かにろうそくを灯し、さまざまな重荷を負っている人々を、せめて心に思い起こして礼拝を捧げ、その闇の中に、キリストの光が届くように祈りたい。そして、声には出さなくても、心の底から叫びたいのです、「クリスマス、おめでとう!」と。主はどんな時でもみ手を広げて待っていて下さることでしょう。
クリスマスおめでとうございます。

ホレンコの友 11月号     「ホレンコという響き」   

                     日本基督教団千歳栄光教会牧師 杉岡ひとみ

 「ホレンコ」という名前を初めて聞いたとき、へんてこで面白い響きだな、と思いました。巻頭言からこんなことを書くなんて失礼な、と思われるかもしれません。ただ、私がホレンコの名を初めて聞いたであろう中高生の頃、単純にそう思ったのです。そしてそれが不思議で面白い響きだからこそ、ホレンコの名は妙に私の耳に残りました。当時通って教会では、時々礼拝後の報告で、教会の年配の方が熱心にホレンコの働きについて話をしたり、献金のお願いしていたことをよく覚えています。とはいえ、当時はホレンコという名前を覚えただけで、詳しい働きについてはあまりわかっていませんでした。ですから、私の理解は「よくわからないけれど、大事な働きなんだ」というぐらいだったと思います。 
 やがて高校卒業後に北海道を離れ、しばらく「ホレンコ」の名を聴くことはありませんでしたが、十数年前に北海道に戻り、再びホレンコと関わりをもつようになりました。そして「あのホレンコって、放送伝道を行っている団体だったんだ・・・」と、恥ずかしながらおとなになった私はやっと理解することができたのです。そして改めて、この福音の種まきがいかに尊いものであるかを知りました。また、多くの方々がホレンコの働きを覚えてつながっていることもわかったのです。おとなになって、多くの方が教会、教派を超えてホレンコの働きを覚え、支えていることがわかった時、昔、教会の方が礼拝後の報告で一生懸命ホレンコのことを呼びかけていた記憶と、今もその働きを支える方々とが一本の線でつながったように感じられました。そう感じた時、ホレンコという不思議な響きが心に新たな感動を与えてくれたように思います。時を結び、人をむすび、福音の種まきの業を行うひとりひとりと共に働いてくださる、神さまの存在をあらためて感じました。
 今もまた、ホレンコのラジオを通して、電話を通して、誰かがキリストとの出会いを体験しているのかもしれません。昔も今も、そしてこれからも、その宣教の業がさらに豊かになるようにと祈りつつ、私自身もホレンコを支えるひとりとしてこれからもつながっていきたいと思っています。

ホレンコの友 10月号      「造り主は養ってくださる」   
  
                  日本基督教団北広島教会牧師 菊地啓示

神社に行きますと拝殿の前には賽銭箱があるものですが、かつてのユダヤの国でも、イエス様が足を運ばれたエルサレム神殿の境内には賽銭箱というものがありました。賽銭箱といってもその形はわたしたちが知っているような「四角い箱状」ではなく、ラッパが上を向いたようになっていて、硬貨を入れると音が鳴り響いたのだそうです。
ある日のこと、イエス様は高価な衣服を身に着けた何人もの金持ちたちが、庶民からすれば高額の銀貨や金貨をガラガラと音を立てさせながら賽銭箱に入れていたのを見ておられました。その音を聞いて「ああ、沢山入れているな」と、中には尊敬と羨ましさの入り交じったような思いで眺めた人たちも少なくなかったのではないかと思います。イエス様はまた一方で、あるやもめが当時一番値打ちの低いレプトン銅貨二枚を賽銭箱に入れているのも御覧になりながら、弟子たちに言われました。「確かに言っておくが、この貧しいやもめは、だれよりもたくさん入れた」。レプトン銅貨二枚というのは、今の100円から150円くらいの額ですが、それを「だれよりもたくさん入れた」というのはどういうことなのでしょうか。
 お金であれ、何であれ、献げものというのはすべて、神様に向かって献げるものです。けれどもその際、わたしたちの心がどのように神様に向いているかが問われています。イエス様は「あの金持ちたちは皆、有り余る中から献金した」と仰います。高額の硬貨をガラガラと音を立てて賽銭箱に投げ入れてはいても、それは「有り余る中から」であって、彼らが賽銭箱に入れていたのは要するに「余り物」でした。多くの収入の中から、自分に必要だと考えるもの、自由にしたいと思うものを全部取り分けた後で、最後に余ったものの中から入れていたのです。
 では、貧しいやもめはどうだったかというと、イエス様は「この人は、乏しい中から持っている生活費を全部入れた」と仰います。彼女には余分がありませんでした。持っていたレプトン銅貨二枚がその日の生活費の全てです。その全てを掛けて(賭けて)造り主に依り頼みました。それは大変に重い信頼、全体重、全存在をもってする信頼です。神様は、「わたしはあなたたちを造った。わたしが担い、背負い、救い出す。」(イザヤ46:3-4)と言われる造り主です。その御方に向かって、生活の全てを投げ込むように献げた彼女の思い切りの良さに、何か、活を入れられるような気がします。造り主はわたしたちをも丸ごと受け止めて、担い、救い出し、養ってくださる御方に違いないのです!

ホレンコの友 9月号       「その後わたしはすべての人にわが霊を注ぐ。
          あなたたちの息子や娘は預言し、老人は夢を見、若者は幻を見る。」 (ヨエル書3章1節)
  
                       日本福音ルーテル札幌教会牧師 日笠山吉之

新型コロナウィルスの感染拡大防止のため、私が牧する教会でもイースター以降ペンテコステまでの約2ヶ月間、公開の礼拝を中止しました。上記の『ヨエル書』の御言葉は、3年に1度はペンテコステの日に朗読されることになっている箇所です。今年は、公開の礼拝がペンテコステまで出来なかったため、ZOOMに繋ぐことができる教会員はオンライン礼拝で、そうでない方はあらかじめ郵送された週報と説教原稿によって自宅礼拝を守っていただきました。牧師としてはなんとももどかしい思いでしたが、それぞれ礼拝に与る場所は異なっても、聖霊はきっと一人一人の上に注がれたと信じています。
 教会とは、実に不思議なところです。生まれたばかりの幼子からお年寄りまで、老若男女さまざまな年齢構成の方々がおられます。しばしば教会の高齢化が指摘されますが、お年を召した方がたくさんおられてもいいではありませんか。聖書によれば、彼らはみな「夢」を見ることが出来る方たちなのですから。信仰の先輩たちが頭を垂れて御言葉に聞き入っておられる姿を見ていると、私はいつも襟を正される思いになります。一方、教会には渡り廊下で繋がった幼稚園もありますので、日曜日になると教会学校に園児や卒園生たちがやって来ます。彼らのキラキラ輝く瞳を見ていると、みな「幻」を見ているに違いないと思わされます。子どもたちは、神様からいったいどんな素敵なヴィジョンを与えられているのでしょう。このように教会とは、夢や幻を神様から与えられたたくさんの大人や子どもたちが、お互いに何の違和感もなく一緒にいることが出来る場なのです。
 先日いつものように幼稚園に登園してくる子どもたちを出迎えていると、年長さんのRちゃんがとびきりの笑顔で駆け寄って来て、「牧師先生、ちょっと遅れたけど、お誕生日おめでとう」と言ってくれました。誕生礼拝の時に、Rちゃんの誕生日と自分の誕生日が同じであることに気づいたので、そっとお母様にお伝えしたのです。そのことをお母様もRちゃんに伝えてくださったのでしょう。思いがけないバースデープレゼントに、心がほっこりしました。その日、Rちゃんを連れて一緒に登園して来られたお父様からは、「娘とは何歳違いますか?40歳くらいですか?」とかなり若く見積もっていただいたのも、嬉しさを倍増させてくれました。実際はちょうど50年も違うのです。自分でも改めてその事実に驚き、ふと考え込んでしまいました。今でも50年前のあの頃のように、毎日キラキラした幻を見ているだろうか?御言葉が語っているように、これからも大いなる夢を見ながら歳を重ねていくことができるのだろうか?と。「わたしはすべての人にわが霊を注ぐ」。この御言葉を信じつつ、キリストが約束された聖霊を日々豊かに神からいただきたいものです。

ホレンコの友 8月号 「主にあって平和を祈りつつ」
  
               日本キリスト教団麻生教会牧師 上森俊明

 8月になりますと、太平洋戦争を思い起こさせる映画などのエンタテインメントや報道に促されて、平和について考えることが多くなります。もちろん、いつも平和であることを願っているわたしたちですが、平和に心を寄せる季節が与えられていることは良いことだと思います。終戦から75年が経過し、当時のことを語れる人も少なくなってきました。同じ戦争であっても、いつどこで経験したかによって語る内容は違います。私自身が、戦争について、これまで聞いてきたこと、見てきたことを辿って見ますと、母から聞いた学校での竹槍訓練、疎開先で大切な着物や貴重品を米と交換したことなど、日常が戦争一色になったことを悔しい面持ちで語ったことを思い起こします。また、牧師として教会に仕えているとシベリア抑留された信徒の方からお話を伺ったり、満州から帰ってきた信徒の方のお話を伺ったり、さまざまな経験を聞かせていただきました。
 広島平和記念資料館には、これまで数回訪問しました。その都度、原爆の恐ろしさを感じます。他にも、イスラエルのホロコーストミュージアムを訪れたこと、沖縄訪問で感じたことなど、紛争解決のためにくだされる戦争という決断の結果が悲惨であることは、残された資料を見ても明らかなことです。にもかかわらず、世界のどこかで紛争があり、武器が使用され、戦争状態は解消されることなく、この世に存在しています。
 今、わたしたちはコロナ禍において、さまざまな感染症拡大防止対策をとって生活をしています。マスクをしたり、除菌や換気を徹底したり、他にも、手洗い、うがいなど、細かく取り上げれば切りがないほど、気を付けて生活をしています。当初、「コロナウイルスとの戦い」という言葉が用いられ、勇ましい戦いを想起させる報道一色になりました。このような報道を見ながら「戦い」という言葉に煽られている社会に違和感を覚えながら過ごしていました。
 人は自らに与えられた命と向き合って生活をしています。人を死に至らしめる原因や人を不安に陥れる原因は数多く存在しています。このような現実の中で、わたしは牧師として召されて礼拝を司る者となり、主イエス・キリストにあって平和と平安を願う祈りを続けています。これからも祈り続けることでしょう。人の力によって平和と平安が実現されるのだとおごり高ぶることなく、主によって成し遂げられている平和と平安を信じ、祈り続けたいと思います。

 

ホレンコの友 7月号  「愚か者の心は定まらない」 (箴言15:7)

                 日本キリスト教会札幌桑園教会牧師 秋本英彦

先日、警察から電話がかかってきました。「へっ?、心当たりなどないのに」。出ましたら「教会前の道路で小学生の男の子が不審者に声をかけられたので目撃しませんでしたか?」という内容でした。その不審者の特徴を聞きましたら「身長175p、50代、黒い服を着ていた」そうです。「うそ!!?」、全部自分にあてはまります。突然、頭の中がパニックで真っ白になって、「自分は若年性認知症になったのだろうか?。いやでもそんなことしないしあり得ない」。答えられないでいると、その婦人警官はさらに電話で聞いてきます。「お宅の教会や幼稚園で平日出入りする男の方はどんな人がいますか?」、「はい、20代のジャニーズ系の先生と、英会話を教える外国の先生と、あと言いずらいですが私…実は当てはまりますが…」、相手はしばらく沈黙の後、「あなたやってませんよね?」と聞いてきました。さすがです。TV「警察24時」みたく一度疑問や弱みを見つけるととことん追求してきます。「勿論、やってません。」と答えました。(※本当は「牧師に向かってよく言えますね?」と反撃したかったのですが止めました)。
 でもまだ許してくれません。「では、事件のあった先週何日の午後あなたはどこにいましたか?」、「牧師室にずっといました」。「それを証明できる人いますか?」、「……」。生まれて初めてアリバイを聞かれました。惜しいことに前後日の同時間だったら聖書研究会をしていたり、整骨院に行っていたので完璧なアリバイがあったのです。結局、「いずれ教会をお訪ねするかもしれません」と言われて電話は終わりましたが、頭の中のぐるぐるは収まりません。
 礼拝堂でも祈りましたが心が集中せず、「もし不当逮捕されたらどうしよう。パウロみたく獄中書簡でも書くか」とか変なことばかり浮かびます。悩みに悩んだ挙句、園長先生に緊急電話を入れました。桑園教会は二階が教会で一階が幼稚園だからです。すると明るい声で「あー、牧師先生、その話よーく知ってます。被害に遭った子は卒園児ですし、両親も知っています。大丈夫です。警察が来ても私が先生のアリバイの証人になりますから」と言ってくれました。今まで暗黒だった心が、ぱあ〜と一瞬でゴールデンに輝きました。それからは「いつでもかかってこいやぁー」って待っていたのですが、結局来られませんでした。
これにて一件落着かはわかりませんが、とりあえず守られたことは確かです。その時に浮かんだ聖句が「愚か者の心は定まらない」です。どんなに聖書を読んでいても、信仰をもっていて、後ろめたい思いがなかったとしても、少しのことでも人は簡単に不安になると知りました。それでも一人味方になってくれる人さえいれば、どんな状況も大きく変わりえることも感じました。
わたしたちキリスト者には、主イエス・キリストという最大の味方がおられます。今、心定まらない不安な時を多くの方々が過ごしていますが、主イエスがいつも共にいることを忘れずに過ごしてゆきましょう。

 

ホレンコの友6月号  「多くの実を結ぶために」

              インマヌエル恵庭キリスト教会牧師 小 田  満

「わたしは真のぶどうの木、わたしの父は農夫です。わたしの枝で実を結ばないものはすべて、父がそれを取り除き、実を結ぶものはすべて、もっと多く実を結ぶように、刈り込みをなさいます。」    (ヨハネの福音書15:1,2)

W・クラーク博士は北海道を去るとき「少年よ、大志を抱け!!」と言ったそうですが、イエス様は十字架刑の前夜、ご自分をぶどうの木に譬えて、弟子たちに言われました「わたしのことばにとどまっていなさい。そうれば、多くの実を結びます。」(5節)
ぶどうの木は幹が細く、幹と枝の区別がつけにくいのですが、幹は樹液を送り、枝は実を実らせます。その際、無駄な枝を剪定すると、より多くの実を結ぶことが出来ます。ですから、農夫の剪定と幹の樹液、枝の結実は3者一体なのです。
イエス・キリストはぶどうの木であり、救いに与った者はその「枝」です。天の父は農夫であり、私たちが多くの実を結ぶために、私たちを剪定されます。「剪定とは植物の不要な枝を切り取って生育を促し、多くの結実をもたらす作業」と言えます。
ところで、戦後、あるクリスチャンの青年は米国の神学校に留学しました。彼はフルートが好きでした。ところが伝道者となるべく神学校での訓練を受けるに際し「好きなフルートは勉学の妨げとなる」と、心に示され、ついに船のデッキから海に投げ捨てたのです。後に、彼は米国大学の最優秀生リストに載せられました。また帰国後、多くの人々を主に導き、多くの若い人々を主の働き人として訓育しました。
剪定のハサミが入れられるとき、わたしたちは苦痛を味わいます。しかし、それを通して信仰は純化され、主のみことばが正しく見えてきます。
現在、人類は新型コロナウィルスの為に艱難に直面しています。試練、患難は苦痛をもたらします。しかし、「悩みというものは、どんな形でも、それが何ものかをもたらす天使と考えるなら、慰めとなる」と言った人がいます。神様は私たちが「多くの実を結ぶ為に」試練を与え給うのです。
私たちが結ぶ実とは何でしょう。ぶどうの木の樹液が枝にぶどうの実を結ばせるように、イエス様の霊的樹液は、私たちに信仰者の品性、すなわちイエスキリストの姿を結実させます。私たちが「多くの実を結ぶことによって、天の父は栄光をお受けになります」(8節)
私たちは「多くの実を結ぶ」者でありましょう。またホレンコの働きが、多くの実を結びますよう祈りましょう。その働きに感謝して、大いに活用しましょう。

 

ホレンコの友5月号       「神の憐れみ、御計画による救い」
     
               日本キリスト教会旭川教会牧師 北村一幸
 
   神はモーセに、「わたしは自分が憐れもうと思う者を憐れみ、慈しもうと思う者を慈しむ」と言っておられます。
   従って、これは、人の意志や努力ではなく、神の憐れみによるものです。(ローマの信徒への手紙9章15〜16節)

 

私は、昨年の春、23年という長い期間に亘り奉仕することが出来ました小樽シオン教会の任を解かれ、旭川教会に赴任しました。実は、旭川教会は小樽に赴任する前に仕えていた教会であり、再びこの地に住み、この教会にお仕えすることとなったことを、実に不思議な神の導きと思い、すべてを委ねて2度目ですが、新たな道を歩み出すこととなったのです。
 さて、教会の異動にあたって、神様は大きな恵みを与えて下さいました。小樽シオン教会最後となった2019年3月31日(日)の礼拝の中で2名の受洗者、そして新しく赴任した旭川教会の最初のクリスマス12月22日(日)の礼拝の中で、2名の受洗者が与えられたのです。
 小樽での一人はクリスチャンホームの中で只一人だけ未受洗であったご主人、ご家族の長い願いと祈りに導かれ支えられて、受洗の決心をされ、受洗準備学習会を行うことが出来、受洗に導かれました。もう一人は姉妹で、私の転居が2週間後に迫る時に、自ら受洗の希望を申し出られ、驚かされました。彼女は小樽市内で合唱団3つを主宰し、個人的にも多くの生徒に音楽を教えている人なのですが、10年程前に教会を訪ねて来られ「音楽の練習の為に会場を貸して下さい」とうことで、教会の礼拝堂をお貸しすることになったのです。それからは、いろんな交わりの機会がありました。ゴスペルの英語の歌詞の意味を聞かれては、一緒に神様の恵みに感動したりしたものでした。やがて、クリスマス讃美礼拝に団員を率い手伝ってくださるようになりました。お二人とも準備会、試問の時を経て、クリスチャンとなられました。
 新年度4月、旭川に赴任、しばらく後に受洗希望者が与えられました。一人は長年の求道生活に加え、彼女を導いてくれた先輩クリスチャンの熱心な祈りと親しい交わりがあってのことでした。もう一人は年配の男性で、突如礼拝出席を希望され、毎週熱心に通い始められました。既に信仰をもって天に召されていた御夫人が求め旅立った天国に行きたい、神の国の一員になりたいとの一心で、一度も休むことなく礼拝に通い続けられました。短くはありましたが熱心でまっしぐらの求道生活でした。このお二人とも、12月22日(日)クリスマス礼拝の中で洗礼を受け、教会員一同も感謝に溢れる恵みの時でした。
 このような事例をあげましたのは、あまりにも共通なことが多く、只々驚かされているからなのです。人間の感覚と知恵によっても確証されたと思える計画的な救いの道、それに比し人にはあまりにも突然、驚きのうちに神の救いが現れ出たとしか言えないような救いの道、この2種が鮮やかに、続いてあったからなのです。
 ホレンコの働きを覚え祈ります。ラジオの電波を通して、北海道民一人一人に蒔かれた神の言葉の種がどんな形でか成長し、やがて、私たちには驚くべき形で突如現れ出でて救いの確かな現実を見ることが出来ますようにと、願うものです。

 

ホレンコの友4月号        「黙れ、静まれ」
     
                日本ナザレン教団札幌教会牧師  古川修二

新型コロナウイルスの感染が拡大する中、鈴木北海道知事は、「緊急事態宣言」をし、道民に週末の外出を極力控えるように呼びかけました。これに応え、札幌ナザレン教会でも3月1日の礼拝を中止することにしました。教会の歴史においても、私自身の牧師生活においても初めての出来事でありましたが、妻と二人の礼拝を行い、説教を動画にとり、ネットにアップしました。初めての体験でした。
祈るような思い。目に見えないコロナウイルスの恐れの中で、多くの人々が、神を信じている人もいない人も、そう感じているのでないでしょうか。福音書の中に、多くの人々を教え導いた日の夕方、ガリラヤの湖で、主イエスが弟子たちに、「向こう岸へ渡ろう」と言われたことが記されています。そこで、弟子たちは群衆を後に残し、お疲れになられた主イエスを舟に乗せたままお連れするのですが、激しい突風が起こり、波が舟の中にまで入り込み、舟は水でいっぱいになるという非常事態が生じてしまいます。ところが、主イエスは、少し高くなっている船尾で枕をして眠っておられたのでした。この時主はよほど、お疲れになられていたのだと思います。弟子たちはあわてふためき、主イエスを叩き起こして、「私たちが死んでも、かまわないのですか」と叫びます。今、まさに、この叫びが、世界中で起こっています。主イエスは、この後、起き上がって風を叱りつけ、荒れ狂う湖に「黙れ、静まれ」と言われ、風はやみ、湖は、すっかりなぎになったと記されています。この箇所から、私たちが学ぶことは何でしょうか。それは、いついかなるときにも、主イエスのように、天と地と海とすべてのものを造り、支配しておられるお方への信頼を失わない。そのお方を天父として信頼し、主イエスと共に歩み、落ち着いて出来る限りのことをするということです。
 聖書の中に、世が終わる時のしるしの一つに、「不法がはびこるので、多くの人の愛が冷えます」という主の言葉があります。今、世界中で様々な困難の中で、「多くの人の愛が冷える」という悲しい状況が生じています。私たち信仰者にも、そうした厳しい現実が押し寄せています。しかし、愛の欠乏を嘆きつつ、「神よ、私には、人に与えるものがありません。愛がありません。どうか、私をあわれみ、愛を与えてください。今こそ、互いに助け合うことができますように」と、祈り求め続ける者でありたいと思います。主なる神は、必ず、その祈りに応えてくださると確信します。天の父はご自分に求める者たちに聖霊を与えてくださるからです。神は、すべてのことを働かせて益としてくださるお方です。その愛と力と恵みに寄りすがりながら、私たちに与えられている道を、最後まで歩みましょう。 (ホレンコ幹事)

 

ホレンコの友3月号          「あなたのただ中に」
     
                 日本メノナイト白石キリスト教会牧師 川ア憲久

「天の御国は、からし種のようなものです。それを取って、畑に蒔くと、どんな種よりも小さいのですが、成長すると、どの野菜よりも大きくなり、空の鳥が来て、その枝に巣を作るほどの木になります。」(マタイの福音書13:31、32)

 最近、携帯電話の使用料金が増えたと思い、使い方を注意して、なるべく通話を控えていましたが、やはり次の月も今までよりも高い請求でした。そこで料金明細をよく見ると、それは昨年の消費税の増税の影響であることが判明しました。決して税金そのものが悪いわけではありませんが、自分の財布の中に他人の手を入れられているような気持になりました。
からし種は大変小さな種です。しかし、成長すると鳥が巣を作れるほど大きくなると言われています。天の御国は、そのからし種のようだとイエスは仰せられました。
天の御国、それは一般に天国と言われますが、聖書で言う天国とは、人が死んでから移される場所という意味よりも神の支配、神の王国を現しています。ですから、イエス・キリストを信じて聖霊が住んでおられるクリスチャン一人ひとりが神の国であり、天国だとも言えるのです。
ですから私たち、一人ひとり、どんなに小さな存在であっても、自分の力ではなく、ただ私たちの内に住んでくださる聖霊によって、何倍にも大きくされ完成に向っていくことがわかります。それは、そのようにキリストを信じた人たちが集まる教会を指しているとも言えます。その教会がどんなに、小さく、弱く見える集まりでも、教会に満ち満ちてくださる聖霊の働きによって、神の栄光が現わされると言うことです。そして、それが将来建てられる、完成した新しい神の国に繋がっていくのです。
今、権力の悪が見過ごされて、正しく生きようとする市民が報われず、税金も正しく運用されていない現実を見るときに、その混沌とした政治に、小さく貧しい人々は虐げられ、将来に希望を持つことはできません。
しかし、このイエスのことばによるならば、私たちが今どんなに押しつぶされそうでも生ける神によって成長し、幾倍にも膨れ上がる神の国となることができるのです。それは、あなたのために十字架で死なれ、墓に葬られ、三日目によみがえられたイエス・キリストを信じるときから始まる現実の恵み、信じる瞬間から将来へと広がる、神の確かな約束なのです。

「見なさい。神の国はあなたがたのただ中にあるのです。」(ルカの福音書17:21)

ホレンコの友 2020年2月号       「転んでも」
 
                   日本キリスト教団 十二使徒教会牧師 坐間 豊

転びました。ツルッ。新年早々。町内の人に見られていたので、クルリン。こまねずみののように鮮やかにお見せしました。(拍手!) 
 人生ままならないことがあります。悩みも尽きません。避けられないとしたら、せめてそんなときにもジタバタしないで、できればさわやかにやり抜ければなあ。
 聖書に登場するパウロという人は、当時、会ったことのある人にこう言われています:「会ってみると、聞いていたのとは違って、弱々しく、話しもつまらない」。パウロには、予想外の評価だったでしょう。低く見られたというよりも、彼が伝えたかったのは神様のお言葉です。自分のことはどうでもよかったのです。だから、自分の務めを精一杯果たせばあとは神様にお委ねして平安です。それでパウロはあらぬ中傷など気にせず、「主のみを誇り、栄光を神様にのみ帰す」のでした。
 さわやかです。カッコいいです。ほれぼれ。 教会のいいところはこれ。辛く苦しいことや思いどおりでないことがあったり、なんで私だけがこんな目に遭うの?と思えたりするときに、それでもうちひしがれず、前向きに歩んでいく人を見られます。その人には神様への思いがいっぱいです。信頼、安心、平安。身を任せる姿に余裕さえ。ぐちや不平でなく、賛美や感謝が口からあふれます。
 思えば、これまでどれだけ転んで来たか。歩行転倒だけでなく、やり直そうと心に決めながらも、実行できずに転んだことの数々。教会に初めて行ったときも、途中まで行きながら、「止めた。次にしよう」という転び。そんな繰り返しをして、ある時ハッと気付かされた:「結局、いつもそうやって、『またにしよう』だ。『次』なんて絶対こないまま一生終わるんだね。」
 そこで、勇気を出して、教会に足を運ぶ人たちの群にわが身を委ねました。自然に教会
へ入りました。自然にみ言葉を聞きました。自然に賛美を合わせました。自然にお祈りに加わりました。自分の中で引っかかっていた何かが外れました。
 もっと早くイエス様を知っていたらとも思いますが、「キリストが今、私の内に生きておられる」とたしかに信じ、喜べるので感謝がすべてに先立ちます。
転びそうになっても、イエス様が共にいて私を生かして下さるので心配していません。たとえ転んでも、堂々とイエス様を指し示し、すべてを最善へと導いて下さる神様の恵みに感謝します。そんな生き方になるのです。
「生きているのは、もはや私ではありません。キリストが私の内に生きておられるのです。」
 (新約・ガラテヤの信徒への手紙2章20節)

ホレンコの友 2020年1月号

                  「今年こそ。いや、今日こそは」

                           日本キリスト教団札幌北光教会伝道師 野田 祥

「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」 (マタイによる福音書6章33節〜34節)

イエス様は、何を食べ、何を飲むか、また何を着ようかと、思い悩むなと言いました(25節)。あなたたちがこれらを必要としていることは神さまが知っていると(32節)。決して裕福な暮らしをしていたとは言えないイエス様が、神さまへの絶対の信頼を置いていることが伺えます。
しかし、現実はどうでしょうか。イエス様が生きていた時代においても現代においてもそうですが、衣食住が十分でない生活を強いられている人々は大勢います。だれから強いられているのか。それは、人間によって、です。人間は自分だけの欲望を優先させ、暴走させて、必要以上を求めるものです。そうして、本当にそれを必要としている人の分まで奪い取っている現実が今も昔もあります。イエス様は決して、現状を、「神さまが与えて下さるから大丈夫」と楽観視していたのではないと思います。むしろ、神さまは必要なものを備え、与えて下さるはずなのに、人は他者の必要なものを奪い取っているという、現実の狭間の中で苦しんでいたのではないでしょうか。「何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようか」という悩みは、数ある選択肢の中から悩むのではありません。そもそも、物が無いのです。今日を生きて行くための食糧が無い、今日を快適に過ごすための着るものがない、そういう思い悩みです。
では、イエス様が、こういったことを思い悩むな、と言った本当の意味は何でしょうか。物が無いことを悩むのは当たり前です。一人一人の生きること、命にかかわることなのですから。しかしイエス様は、本当に悩むべきことについて、次のように言うのです。「その日の苦労は、その日だけで十分である」。「苦労」と翻訳されているギリシア語は、悪、悪事、という意味もあります。本当に悩むべきなのは、必要なものを奪うような悪事や悪意です。それらが正されてようやく、だれもが生活に困ることの無い毎日を過ごす事ができるのではないでしょうか。「その日の悪は、その日だけで十分である」という言葉には、社会の中で苦しめられている人々の叫びをイエス様が共に挙げていることが現れています。「悪さをする奴らは、今日を限りにやめてほしい」。そのように聞こえるのです。

 世界には、わたしたちの身近なところでは、未解決の問題が山ほどあります。その問題の一つひとつには見える悪意、見えざる悪意が複雑に絡み合っています。そういう社会の中にあって、神の義が為される世界、つまり、神の国を求め続けたいのです。必要なものをご存じである神さまの正しさが行き渡る世界に、今年こそ、いや、今日こそ実現して欲しい。復活のイエス様は、時を越えて今日も叫んでいます。