ホレンコ2019年2月号 「わたしに何をしてほしいのか」
『イエスは彼に言われた。「わたしに何をしてほしいのですか。」すると、
その目の見えない人は言った。「先生、目が見えるようにしてください。」』 (マルコ:10:51)


福音バプテスト宣教団:北広島チャペルキリスト教会 木村恵一

 私の知り合いに、カブトムシ数十匹を幾つもの籠に分けて自分の部屋で飼って繁殖させている人がおります。 彼はそのカブトムシのために四六時中室内温度にも照明にも気を付け、餌はもちろんのこと、籠の中の状況にも気を使い、それこそ至れり尽くせりでカブトムシ達を育てているのです。それで商売をするためでもなく、ただ彼はカブトムシを愛しているのです。
彼からそのように手厚い保護と養育を受けているそのカブトムシ達は、多分彼に意識もせず感謝もしていないと思いますが、彼はそんなことはおかまいなく、いつも籠の中の彼らを覗き込んで「わたしに何をしてほしいのか?」と問いかけつつ、彼らの願いを先回りまでしつつ、自分の時間と労力までも犠牲としながら、彼らの必要を満たしてあげているわけです。
彼のカブトムシへの姿は、救い主なるイエス様の姿とダブります。イエス様は人の必要を見て取られ、「わたしに何をしてほしいのですか。」と言われ、その人の必要を与えられました。数多くの神々がいるとするこの世において、神の方から人に近づき、人の必要を尋ねそれを満たしてくださる神は、このイエス様の他にはおられないでしょう。しかも計り知れない犠牲(受肉と十字架)を払われて私達を良きに計らい、救いの恵みにいつも私達を潤し満たす御方であります。
この御方が、今日も私達に「わたしに何をしてほしいのか?」と尋ねてくださるのです。それは、ラジオを通しても成されています。日常に追われ、自分の必要を覚えながらも中々それを満たすことのできない私達に、そこにいながらにして電波を通して、この天地万物を創造された神様が尋ねてくださるのです。ホレンコのラジオ放送は神様がそのために用いておられるものです。
「わたしに何をしてほしいのか?」と本来自分に尋ねてくれる人など私達にはいるでしょうか?この神なるイエス様は、確実に私達にそうお尋ねくださるのです。ですから、私達もあの目の見えない人のように大胆に必要をお伝えしましょう。私達を愛してやまない神様は、必ず私達の必要にお応えくださるからです。

ホレンコ2019年1月号           「新しい年を迎えて」
                        日本福音ルーテル札幌教会牧師 日笠山吉之

新年明けましておめでとうございます。
2019年が幕を明けました。今年は皆さんによってどんな年になるでしょう。神の恵みと祝福に満ちた年となりますように。
 私が所属しているルーテル教会では、新年に決まって歌われる讃美歌があります。『教会讃美歌』49番の「新しい年を迎えて」です。(『讃美歌21』では368番)次のような歌詞です。1節「新しい年を迎えて 新しい歌をうたおう。なきものをあるがごとくに 呼びたもう神をたたえて 新しい歌をうたおう。」2節「過ぎ去った日々の悲しみ さまざまなうれいはすべて キリストのみ手にゆだねて、み恵みがあふれるような 生き方を今年はしよう。」作詞者は、かつてルーテル教会の牧師としてご奉仕された故江口武憲師です。(ご子息の江口再起先生は、昨年NHKのカルチャーラジオ「歴史再発見」で『ルターと宗教改革500年』の講師を務められたのでご記憶の方もいらっしゃるかもしれません)
 その江口武憲牧師が1967年に出版されたエゼキエル書による説教集『望楼に立つ』を、昨年から教会員の方々と共に読んでいます。今から50年以上も前に出版された説教集とは思えないきわめて現代的で、示唆に富み、研ぎ澄まされた御言葉が随所にちりばめられています。たとえば、8章「翻って生きよ」は、次のように始まります。「困難な事態、あるいは不幸な状態、それを解決し、救済するのに、いくつかの方法があるように思われることがある。しかし、解決の方法はいくつもあるわけではない。一つだけである。言葉の最も深い意味において、それを自分の責任として背負うことだけである。その事態を自分の責任として痛切に反省し、自分の課題として背負おうとする。それだけである。そこからおのずと神に祈る姿勢も生まれてくる。生きる道も開けてくる…」。武憲牧師は、クリスチャンが現実の問題に直面すると、はっきりした態度を示さないことを嘆いておられます。具体的なことに何一つ触れず、和解しましょうとか、平和のために祈りましょうなどといったところで、それは何も語らないのと同じだ。否、むしろ語らないよりかいっそう悪いことだ、と。まさに目が覚める思いです。
 今年も教会の内外ともにいろいろなことが起こるでしょう。それら一つ一つをただ傍観者のように見過ごすのでなく、自分自身に問われている課題として受け止めていきたい。