ホレンコの友9月号  「信仰は聞くことから始まる」

                  基督兄弟団 札幌栄光教会牧師 上野謙一

先日、クリスチャンのA姉から、職場の同僚のBさんのために祈って欲しいと依頼されました。A姉によると、Bさんは長年ヘルニアを患い、ずっとその痛みに耐えて来られました。ところが段々症状が悪化し、最近はしびれも覚えるようになったので病院で診てもらいました。すると、すぐに手術する必要があり、障害が残る可能性もあると医者から告げられたのです。その事実にBさんは愕然とし、途方に暮れました。実はBさんは最近結婚されたばかりだったので、なおさらです。BさんはA姉に電話し、涙ながらにその苦しい胸の内を明かしました。そこでA姉は、その電話口でBさんのために祈り、それ以来、クリスチャンとしてBさんとLINEのやり取りをするようになりました。そして迎えたBさんの手術の前日、私はA姉からBさんのための祈りと、励ましとなるみことばを求められました。A姉と一緒に祈った後、私はつい最近自分が録音したばかりのラジオメッセージがあり、それをホレンコのホームページからも聞くことができることを思い立ち、それをBさんに聞いてもらったらどうかと提案しました。A姉は自分でもそのメッセージを聞いた後、LINEでBさんにも勧めると、「早速聞いてみる」との返事が来たそうです。私は必ず神様がBさんの救いと癒しのために働かれ、最善のことをしてくださると信じています。
今回のことを通して、私はホレンコの働きの新たな可能性を発見しました。それは、ラジオ放送の時間は短く、日時も決められ、決して万人向けの時間帯とは言えない。それでも直に聞けるなら良し。仮にそれができなくても、ホームページからなら自分の好きな時間に好きなだけ聞くことができるということです。それに今はラジオ放送はラジオがなくてもスマホで聞ける時代です。また、実は私は東日本大震災の被災者の一人なのですが、それ以降も自然災害が頻発している中、日本人の防災意識は高まり、ラジオとそこからの情報の重要性が見直されています。ラジオは時代遅れなんてとんでもない。今は、そして、これからはラジオの時代です。是非ホレンコをご活用くださり、一層のご理解とご協力、特に献金を宜しくお願いいたします。
「ですから、信仰は聞くことから始まります。聞くことは、キリストについてのことばを通して実現するのです。」ローマ人への手紙 10:17  (ホレンコ幹事)


ホレンコの友8月号  「現代の奇跡」                
                日本キリスト教会札幌白石教会牧師  斎藤義信

 プロテスタントとカトリックとが協力して聖書の翻訳に取り組んだ聖書の最新版が31年ぶりに聖書協会から出版されました。以前出版された新共同訳聖書も画期的な出版でしたが、比べて読んでみますと、ずっと読みやすくなりました。カトリックとプロテスタントが対話できるようになっただけではなく、聖書翻訳という一つのことを協力して成し遂げることができたということは実にすばらしいことです。改革派教会では礼拝の中で聖書朗読がなされますが、世界の改革派教会で使われている礼拝の中の聖書日課とほぼ同じものがカトリック教会でも使われて、礼拝の中でも朗読されているということを知りました。プロテスタントとカトリックで同じ聖書が使われるということは素晴らしいことです。プロテスタントの中ではなかなか一つの聖書が使われるまでには至っていません。プロテスタントはその一つの特徴としてたくさんの教派に分かれていますが、世界では教派を超えて協力しあうというエキュメニカル運動が盛んになってきています。でも日本ではあまりエキュメニカル運動は盛んになりません。しかし北海道では教派を超えてホレンコという組織が支え続けられているということは、世界に誇れることだと思います。
 ホレンコは1959年に北アメリカの教会の人たちの援助を受けて設立されました。その後1980年に経済的に自立しました。援助がなくなって、いつまで続けられるかという危惧が常にありましたが、もう直ぐ60周年を迎えます。援助を受けていた時期よりも自立してからの方が長くなりました。現代の奇跡と言えると思います。60周年を迎えることができたのだから、次は70周年を迎えたいと思います。
 イエスはたまたま奇跡を行われたわけではありません。イエスがベトザタの池のほとりで病人を癒された時が安息日だったので、律法学者も群衆もイエスが律法違反だと騒ぎ出しました。しかし実際には、安息日であっても割礼を施さなければならないという律法の例外規定がありました。律法学者も忘れているようなこの例外規定をイエスは知っておられて、安息日であっても割礼といういわば医療行為が許されているのに、自分が行った癒しを一方的に問題にするのはおかしいと反論されたわけです。聖書は丁寧に深く読み続けたいものです。  現代でも奇跡は起きるという思いは持ち続けたいと思います。  (ホレンコ幹事)

ホレンコの友7月号  「神様からの贈り物」

                  日本基督教団札幌元町教会牧師 高濱心吾

イエス様を取り巻く群衆の中の一人が、「先生、わたしに遺産をくれるように兄妹に言ってください」(12:13)と主イエスに訴えました。これは欲張りでも不当な要求でもない正当な訴えです。恐らくこの人は、兄弟から遺産の相続について不当な扱いを受けていたのでしょう。イエス様の促しならば、兄妹も従うと思ったのかもしれません。しかしここでイエス様は、「誰がわたしを裁判官や調停人に任命したのか」(12:14)と、つれない返事をされます。それは、もっと大きな贈り物に目を向けなさいという促しです。この世における分配や、私たちの財産、とっても大事な事柄ですが、イエス様がわたしたちにくださるのは、その遺産を増やすこととか、あるいは、健康にしてくれるということではありません。目に見える資産などの行く末に執着していることへの戒めをされるのです。そして、豊作を大喜びする農夫の例えを語り、「自分のために富んでも、神の前に豊かにならないのはこの通りだ」(12:21)といわれます。 自分のために富むことを人生の目的とするのは当然のように思えます。わたしの幸せ、わたしの安定、わたしの教会、私の家族、私の仕事、そういうことを願わない人はいません。ただ、「それが、最終目的ですか?」というのが、イエス様の問いかけです。私たちは、自分の富や財産に、自分のやり方に、自分の願いに執着するのです。しかし、本当に神様がくださった贈り物を喜んで受け入れることが出来た時、イエス様が、主の御用のために私を生かしてくださっている。そのことを信じることが出来た時、わたしたちの命は、永遠の命に結び付けられていくのではないでしょうか。
教会が示すべき光は、神様が来てくださって、私たちと共にいてくださるという、この喜びの光です。この世界で、うまく立ち回り、人よりもかっこよくなることが喜びではありません。
たちが人生の目的とするのは、神のご支配を迎え入れる事です。この私のようなものが、神様からこんなにたくさんの贈り物をいただいた。その神様の深い愛を、分かち合っていく。我々は、共にこの贈り物を喜びたいと思います。

ホレンコの友6月号  もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。
           今私が肉において生きているいのちは、私を愛し、私のためにご自分を与えてくださった、神の御子に対する信仰によるのです。(ガラテヤ人への手紙 2章20節)

               「烏、雀、獅子」        日本基督兄弟団北見栄光教会牧師 笠見旅人

ニュースのなかで、"通行人を威嚇してくるカラスに注意しましょう"ということが話されていました。私も近くの公園を何気なく散歩していたら林の中に入り込んでしまい、いつの間にか複数のカラスに取り囲まれて次々に威嚇され、這々の体で逃げ帰ってきたことがあります。後で振り返ると、彼らの領域に入り込む前に、盛んに警告の鳴き声を聞いていたと思うのですが、考え事をしていてまったく耳に入っていませんでした。
数年前、教会の除雪車のガレージの屋根裏部分にスズメが巣を作りました。何かの拍子に巣を傷つけたら可哀想だと思い、どんな様子なのか親鳥がいない間にこっそり忍び込んで、除雪車に登って背伸びしながら屋根裏を見渡していました。突然、胸に「ボン!」という小さなボールが当たったような衝撃を受けてよろめき、危うく除雪車から落ちてしまうところでした。私に雛を奪われるのではと思った親鳥が必死の攻撃をしかけてきたのです。木の枝に止まって警告する親鳥に申し訳ないと謝罪して、これもまた這々の体で退散しました。このような調子でデリカシーのない私は野鳥の天敵リストに載っているかもしれません。もう少し自然との向き合い方を学ぶ必要がありますね。それにしても、鳥のような小さな生き物たちでも自分の子を守るために、命をかけて向かってくるというその愛情に学ぶべきことはあるのではないでしょうか。
パウロがガラテヤの人々に手紙を書き送ったのは、彼らが本当の福音から逸れてしまっていたからでした。「人はイエス・キリストを信じる信仰によってのみ救われる」という福音の真理に、「信仰だけではなく行いも」必要であると主張する人々が、ガラテヤの教会を惑わしていたのです。正しい福音に彼らを引き戻そうとするパウロは、他の手紙には見られないほどに厳しい口調で語り続けるのです。ある人はこの手紙のパウロの言葉の数々を「我が子を取り戻そうとするライオンの咆哮」と語っておられました。それほどの愛と情熱がこの手紙の中に込められているのです。それはまさに失われた人をご自身の元に取り戻そうとする、神の愛の現れということができるのです。
いのちなきものが溢れるこの世界に対して、私たちはイエス・キリストにこそいのちがあることを、愛をもって訴え続けましょう。ラジオの電波に乗せて福音を届けるホレンコの働きのために、皆様のお祈りとご協力をお願いします。

ホレンコの友5月号   「笑いつつ拍手し合う時」  ルカ11:20
日本キリスト教団島松伝道所牧師 辻中明子

イエスは多くの人を癒しました。それをどのように受け止め、理解するのか、当時イエスの周りにいた人にとっても、現代の私たちにとっても謎です。ルカ福音書11章では 「悪霊の頭ベルゼブルの力」を使っているから出来るに違いない。イエスも悪霊と同族で、それなら理解できる。そう詰め寄る場面があり、愉快にさえ思います。イエスは「私は神の指で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ。」と答えます。癒しが生まれる時とは、悪霊退治のレベルではなく、神の国が実現している時だと語ります。
「浦河べてるの家」発の『当事者研究』という集会を島松の教会でも行うようになり8年目になります。平日の夜、月一回の開催ですが、教会関係者だけでなく、就労支援、医療、教育に関わっている方など、それぞれ自分の生きづらさを語り合う場として集まります。開会前に夕食を食べたり、食べながらだったりして、2時間ぐらい、平均して15名程が集まります。出席者は、自己病名(自分でつけた病名:ちなみに私は「世話好き過労型天然うっかり病」)の紹介、最近の体調、生活や人間関係の苦労を出し合います。その後、二人ぐらい選んで、その方のテーマを参加者全員で眺め、研究します。
ある日「怒りが止まらない」をテーマにした方がいました。どんな時、どんな風に怒るか?
最近の出来事は?怒るメリットは?うまい怒り方は?参加者同士でワイワイガヤガヤ語り合います。やがて、その方が「分かりました!とっても疲れていました。」と、スーッと涙も出ながら「自分が疲れすぎていたことに、今気づきました」と。本人が、仲間と語り合いながら、自分と出会うこと。「疲れるほど、よくやっていた」ことに気づき、皆でそれを拍手し合う。笑いと拍手の音が響きます。
ある日「認知少々、ボケ少々」をテーマにした方がいました。具合が悪いと認知に歪みがあり被害妄想になると。自分の妄想なのか、相手に確認したいが怖くてできない。これには、次々と共感の声が上がり、少し距離を取り、余裕のある時に取り組むなどのアイディアも出されます。しかし、認知が歪んだおかげで、逃げていた自分の課題に気づいた。最後には「認知少々、ボケ少々」は自分にとって、案外幸せのレシピかもしれない。という展開になり、おーっと大きな拍手が起こった。
イエスの癒しとは。硬直した社会の中で、それぞれの生きづらさを認め合いながら、笑いつつ拍手し合う世界への導きだったのではないか。神の国を味わうためのレシピだ。

ホレンコの友4月号   「ガリラヤに行け」(マタイによる福音書28章1節〜10節)

                               日本キリスト教団 琴似中央通教会牧師 秋山 千四郎

 二人のマリアはイエスと最後のお別れをするために墓に行った。いわば葬儀のためだ。葬儀を通して死と向き合い、死を認め、死を受け入れるところから、残された者たちの次のステップが始まって行くからだ。ところが、いざ墓に行ってみると、そこにイエスの遺体はなかった。墓は空だった。あるべきところに死がなかった。それゆえ、二人は葬儀を行うことができず、イエスとお別れすることができなくなってしまったのだ。

 二人は墓場で茫然と立ち尽くしてしまったことだろう。するとそこに天使が現れて不思議な言葉が取り次がれた。「あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる」(28:7)。ここに二つのことが語られている。一つは、イエスが復活されたということ、すなわち、イエスは死の中にはいないということだ。だから、イエスを探すなら、死の中ではなく生の中に探さねばならない。そしてもう一つは、ピンポイントでガリラヤという場所についてだ。

ガリラヤとは何か。ガリラヤとはどこか

  ガリラヤとは、弟子たちの出身地だ。彼らの生活の現場、なすべき課題のあるところ、友人や家族のいるところ。何の変哲もない、身の丈の、普段通りの生活の現場、それがガリラヤだ。さらにガリラヤは、決して居心地の良いところ、快適なところではない。却って居心地の悪いところ、不快なところでさえある。
ちなみに聖書の時代、ガリラヤは「暗闇に住む民」、「死の陰の地に住む者」、「ガリラヤから何のよきものが出ようか」と言われた地域だ。イエスは、そんなガリラヤへ行けとおっしゃった。そこであなたはわたしと出会い、わたしと共に生きる、新しいいのちを生きることになる、とイエスは約束してくださったのだ。

復活のイエスと出会うということ

 復活のイエスと出会うということは、イエスとの人格的な交わりをいただくことであって、蘇生のイエスと出会うことではない。ガリラヤに向かい、ガリラヤに留まるならば、そこでイエスとの人格的な交わりが与えられる。すなわち、様々な課題や問題の中で、主の御言葉が響いて来て、主の御言葉が心にストンと落ちるということが起こって行く。そして、主に励まされ、支えられ、癒され、導かれる人生が始まって行く。時には主に叱られ、道を阻まれ、別の道を歩むことが強要されることもある。しかし、確かなイエスとの人格的な交わりが与えられて、イエスと共に、泣いて笑っての人生が始まって行く。これが、復活の主と共に生きる人生だ。

 そして、その現場となるのがガリラヤだ。だから、私たちも私たちのガリラヤに向かい、私たちのガリラヤを引き受け、私たちのガリラヤに留まって行こう。復活のイエスは聖なる宗教的空間に、スピリチュアルな世界におられるのではない。復活のイエスはガリラヤという私たちの日常生活のただ中におられる。復活のイエスは、彼岸(ひがん)にではなく此岸(しがん)におられるのだ。

                 ホレンコ2019年3月号 「蘭島に導かれて」

                            日本バプテスト教会連合:蘭島キリスト教会牧師 北国哲夫

私は1982年3月に神学校卒業後、埼玉県坂戸市にて開拓伝道をスタートしました。それから26年経った2008年に、私の故郷である北海道での開拓伝道の使命が与えられ、祈りつつ準備を進め、2012年に小樽市蘭島にて開拓伝道を始めました。
当教会は、「弱い立場にある人々と共に立ち続ける教会」をキャッチフレーズとして、伝道と福祉の両輪で教会形成に取り組んでいます。私たち夫婦は、開所、間もなく、地域のボランティア団体に所属し、週一回のお弁当配達と見守りを始めました。また私は社会福祉協議会の業務である「日常生活自立支援員」として、利用者の方へのサポートをしています。
2014年9月、勝手口をリフォームして「トイレ休憩所」を開設しました。特に夏の期間、地域の方、観光客に大いに用いられています。教会前を走る国道は、5月のゴールデンウィークを皮切りに、7月半ばには蘭島海水浴場もオープンし、9月頃まで交通量が多くなります。これまで国外"韓国、香港、台湾、シンガポール等"からの観光客の「トイレ」利用者もありました。トイレ内に置かれた「教会案内」「トラクト」を持っていかれる方もあり、トイレが伝道の役割を担っています。
2015年10月、地域の方から小学生児童の授業終了後の保育場所として教会を開放することができないかとの要請がありました。この地域では、これまでも「学童保育所」の設置依頼があったものの、場所や人材、経済的な確保が得られず、実現に至らなかったようです。今回、この要請を受けて2016年4月より「学童保育所 蘭島こどもクラブ」を開所しました。現在、5名の子どもたちが在籍し、親御さんがお迎えに来るまで楽しく過ごしています。
小樽市蘭島は、自然に恵まれ、アウトドアに最適で、蘭島海水浴場をはじめ、海の幸や山の幸が豊富にあります。当教会が当地に設立された第1の意味は、福音を伝え、救われる魂が起こされ、教会形成がなされることです。第2は地域に根ざし、地域とともに生きる教会、そして第3は、教職者、そのご家族の保養所(?)になることを願っています。つまり、ここで、この場所で休養をとっていただくということです。
以上、当教会設立の経緯、現状、目指していることを述べさせていただきました。少しずつ課題も見えてきていますが、すべては、神さまの栄光がこの地に現れることを願っています。
「すると、王は彼らに答えます。『まことに、あなたがたに言います。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、それも最も小さい者たちの一人にしたことは、わたしにしたのです。』」   (マタイ25:40 新改訳2017)

                ホレンコ2019年2月号 「わたしに何をしてほしいのか」
      『イエスは彼に言われた。「わたしに何をしてほしいのですか。」すると、 その目の見えない人は言った。「先生、目が見えるようにしてください。」』 (マルコ:10:51)

                                福音バプテスト宣教団:北広島チャペルキリスト教会 木村恵一

 私の知り合いに、カブトムシ数十匹を幾つもの籠に分けて自分の部屋で飼って繁殖させている人がおります。 彼はそのカブトムシのために四六時中室内温度にも照明にも気を付け、餌はもちろんのこと、籠の中の状況にも気を使い、それこそ至れり尽くせりでカブトムシ達を育てているのです。それで商売をするためでもなく、ただ彼はカブトムシを愛しているのです。
彼からそのように手厚い保護と養育を受けているそのカブトムシ達は、多分彼に意識もせず感謝もしていないと思いますが、彼はそんなことはおかまいなく、いつも籠の中の彼らを覗き込んで「わたしに何をしてほしいのか?」と問いかけつつ、彼らの願いを先回りまでしつつ、自分の時間と労力までも犠牲としながら、彼らの必要を満たしてあげているわけです。
彼のカブトムシへの姿は、救い主なるイエス様の姿とダブります。イエス様は人の必要を見て取られ、「わたしに何をしてほしいのですか。」と言われ、その人の必要を与えられました。数多くの神々がいるとするこの世において、神の方から人に近づき、人の必要を尋ねそれを満たしてくださる神は、このイエス様の他にはおられないでしょう。しかも計り知れない犠牲(受肉と十字架)を払われて私達を良きに計らい、救いの恵みにいつも私達を潤し満たす御方であります。
 この御方が、今日も私達に「わたしに何をしてほしいのか?」と尋ねてくださるのです。それは、ラジオを通しても成されています。日常に追われ、自分の必要を覚えながらも中々それを満たすことのできない私達に、そこにいながらにして電波を通して、この天地万物を創造された神様が尋ねてくださるのです。ホレンコのラジオ放送は神様がそのために用いておられるものです。
「わたしに何をしてほしいのか?」と本来自分に尋ねてくれる人など私達にはいるでしょうか?この神なるイエス様は、確実に私達にそうお尋ねくださるのです。ですから、私達もあの目の見えない人のように大胆に必要をお伝えしましょう。私達を愛してやまない神様は、必ず私達の必要にお応えくださるからです。

                  ホレンコ2019年1月号    「新しい年を迎えて」
                                日本福音ルーテル札幌教会牧師 日笠山吉之

新年明けましておめでとうございます。
2019年が幕を明けました。今年は皆さんによってどんな年になるでしょう。神の恵みと祝福に満ちた年となりますように。
私が所属しているルーテル教会では、新年に決まって歌われる讃美歌があります。『教会讃美歌』49番の「新しい年を迎えて」です。(『讃美歌21』では368番)次のような歌詞です。1節「新しい年を迎えて 新しい歌をうたおう。なきものをあるがごとくに 呼びたもう神をたたえて 新しい歌をうたおう。」2節「過ぎ去った日々の悲しみ さまざまなうれいはすべて キリストのみ手にゆだねて、み恵みがあふれるような 生き方を今年はしよう。」作詞者は、かつてルーテル教会の牧師としてご奉仕された故江口武憲師です。(ご子息の江口再起先生は、昨年NHKのカルチャーラジオ「歴史再発見」で『ルターと宗教改革500年』の講師を務められたのでご記憶の方もいらっしゃるかもしれません)
その江口武憲牧師が1967年に出版されたエゼキエル書による説教集『望楼に立つ』を、昨年から教会員の方々と共に読んでいます。今から50年以上も前に出版された説教集とは思えないきわめて現代的で、示唆に富み、研ぎ澄まされた御言葉が随所にちりばめられています。たとえば、8章「翻って生きよ」は、次のように始まります。「困難な事態、あるいは不幸な状態、それを解決し、救済するのに、いくつかの方法があるように思われることがある。しかし、解決の方法はいくつもあるわけではない。一つだけである。言葉の最も深い意味において、それを自分の責任として背負うことだけである。その事態を自分の責任として痛切に反省し、自分の課題として背負おうとする。それだけである。そこからおのずと神に祈る姿勢も生まれてくる。生きる道も開けてくる…」。武憲牧師は、クリスチャンが現実の問題に直面すると、はっきりした態度を示さないことを嘆いておられます。具体的なことに何一つ触れず、和解しましょうとか、平和のために祈りましょうなどといったところで、それは何も語らないのと同じだ。否、むしろ語らないよりかいっそう悪いことだ、と。まさに目が覚める思いです。
今年も教会の内外ともにいろいろなことが起こるでしょう。それら一つ一つをただ傍観者のように見過ごすのでなく、自分自身に問われている課題として受け止めていきたい。