ホレンコの友 2019年12月号 「イメージの詩」 クリスマスおめでとうございます。命が軽んじられ、争いを第一の解決策と信じる為政者が多く、怒りの矛先が小さき者へと向かってしまう、そういった混沌の世界において、主イエスの希望と勇気の光が隅々まで行き渡りますように皆で祈りたいと願っています。 |
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ホレンコの友 2019年11月号 「生きるための逃げは有りです」 日本バプテスト連盟 札幌バプテスト教会 副牧師 杉山望 北海道の農業高校を舞台にした『銀の匙』という漫画があります。主人公の八軒君は、進学校での勉強についていくことができず、父親の期待に応えられなくて、中学時代はずっと否定されてきました。農業高校に進学したのも、そこから逃げためで、そんな自分自身に強い劣等感をもっていました。そんな彼に、校長がこのように語り掛けるシーンがありました。「八軒君は『逃げる』という事に否定的なのだね。逃げて来た事に負い目はあっても、その逃げた先で起こった事、そこで出会った人、それらはどうでしたか? 否定するものでしたか? 逃げ道の無い経済動物と君達は違うんですから、生きるための逃げは有りです。有り有りです。」 |
ホレンコ10月号 「渇く」イエス この後、イエスは、すべてのことが今や成し遂げられたのを知り、「渇く」と言われた。 (ヨハネによる福音書19章28節) 日本キリスト教団栗山教会牧師 森 宏士 イエス様は地上の生涯の最後、十字架の上で、「乾く」と言われました。 聖書をはじめて読んでみた時、イエスの姿や言葉に沢山の感嘆を抱きつつも、疑問や反感も持ちました。読み進めてみると、最後には十字架刑でのあっけない死…、しかも渇く姿。唖然としました。毒杯を勇ましく飲んで死んだというソクラテスや武士道の話よりもカッコ悪い…等とも、なぜこんな人を救い主だと信じる人がいるのかとも思いました。 信望厚く、その病の癒しを多くの人が祈り続けていたある人が、ついに最期の時を迎えました。彼の枕辺で、友の一人が嘆きました。「奇跡は与えられなかったのですね…」。彼はささやく事しかできなくなっていた声で、静かにはっきりと言いました。「いいえ、奇跡は起こりましたよ…」。彼の生涯を照らし出すような言葉でした。 |
ホレンコの友9月号 「信仰は聞くことから始まる」 基督兄弟団 札幌栄光教会牧師 上野謙一 先日、クリスチャンのA姉から、職場の同僚のBさんのために祈って欲しいと依頼されました。A姉によると、Bさんは長年ヘルニアを患い、ずっとその痛みに耐えて来られました。ところが段々症状が悪化し、最近はしびれも覚えるようになったので病院で診てもらいました。すると、すぐに手術する必要があり、障害が残る可能性もあると医者から告げられたのです。その事実にBさんは愕然とし、途方に暮れました。実はBさんは最近結婚されたばかりだったので、なおさらです。BさんはA姉に電話し、涙ながらにその苦しい胸の内を明かしました。そこでA姉は、その電話口でBさんのために祈り、それ以来、クリスチャンとしてBさんとLINEのやり取りをするようになりました。そして迎えたBさんの手術の前日、私はA姉からBさんのための祈りと、励ましとなるみことばを求められました。A姉と一緒に祈った後、私はつい最近自分が録音したばかりのラジオメッセージがあり、それをホレンコのホームページからも聞くことができることを思い立ち、それをBさんに聞いてもらったらどうかと提案しました。A姉は自分でもそのメッセージを聞いた後、LINEでBさんにも勧めると、「早速聞いてみる」との返事が来たそうです。私は必ず神様がBさんの救いと癒しのために働かれ、最善のことをしてくださると信じています。
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ホレンコの友8月号 「現代の奇跡」 プロテスタントとカトリックとが協力して聖書の翻訳に取り組んだ聖書の最新版が31年ぶりに聖書協会から出版されました。以前出版された新共同訳聖書も画期的な出版でしたが、比べて読んでみますと、ずっと読みやすくなりました。カトリックとプロテスタントが対話できるようになっただけではなく、聖書翻訳という一つのことを協力して成し遂げることができたということは実にすばらしいことです。改革派教会では礼拝の中で聖書朗読がなされますが、世界の改革派教会で使われている礼拝の中の聖書日課とほぼ同じものがカトリック教会でも使われて、礼拝の中でも朗読されているということを知りました。プロテスタントとカトリックで同じ聖書が使われるということは素晴らしいことです。プロテスタントの中ではなかなか一つの聖書が使われるまでには至っていません。プロテスタントはその一つの特徴としてたくさんの教派に分かれていますが、世界では教派を超えて協力しあうというエキュメニカル運動が盛んになってきています。でも日本ではあまりエキュメニカル運動は盛んになりません。しかし北海道では教派を超えてホレンコという組織が支え続けられているということは、世界に誇れることだと思います。 |
ホレンコの友7月号 「神様からの贈り物」 |
ホレンコの友6月号 もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。 「烏、雀、獅子」 日本基督兄弟団北見栄光教会牧師 笠見旅人 ニュースのなかで、"通行人を威嚇してくるカラスに注意しましょう"ということが話されていました。私も近くの公園を何気なく散歩していたら林の中に入り込んでしまい、いつの間にか複数のカラスに取り囲まれて次々に威嚇され、這々の体で逃げ帰ってきたことがあります。後で振り返ると、彼らの領域に入り込む前に、盛んに警告の鳴き声を聞いていたと思うのですが、考え事をしていてまったく耳に入っていませんでした。 |
ホレンコの友5月号 「笑いつつ拍手し合う時」 ルカ11:20 イエスは多くの人を癒しました。それをどのように受け止め、理解するのか、当時イエスの周りにいた人にとっても、現代の私たちにとっても謎です。ルカ福音書11章では 「悪霊の頭ベルゼブルの力」を使っているから出来るに違いない。イエスも悪霊と同族で、それなら理解できる。そう詰め寄る場面があり、愉快にさえ思います。イエスは「私は神の指で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ。」と答えます。癒しが生まれる時とは、悪霊退治のレベルではなく、神の国が実現している時だと語ります。 |
ホレンコの友4月号 「ガリラヤに行け」(マタイによる福音書28章1節〜10節) 日本キリスト教団 琴似中央通教会牧師 秋山 千四郎 二人のマリアはイエスと最後のお別れをするために墓に行った。いわば葬儀のためだ。葬儀を通して死と向き合い、死を認め、死を受け入れるところから、残された者たちの次のステップが始まって行くからだ。ところが、いざ墓に行ってみると、そこにイエスの遺体はなかった。墓は空だった。あるべきところに死がなかった。それゆえ、二人は葬儀を行うことができず、イエスとお別れすることができなくなってしまったのだ。 二人は墓場で茫然と立ち尽くしてしまったことだろう。するとそこに天使が現れて不思議な言葉が取り次がれた。「あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる」(28:7)。ここに二つのことが語られている。一つは、イエスが復活されたということ、すなわち、イエスは死の中にはいないということだ。だから、イエスを探すなら、死の中ではなく生の中に探さねばならない。そしてもう一つは、ピンポイントでガリラヤという場所についてだ。 ガリラヤとは何か。ガリラヤとはどこか ガリラヤとは、弟子たちの出身地だ。彼らの生活の現場、なすべき課題のあるところ、友人や家族のいるところ。何の変哲もない、身の丈の、普段通りの生活の現場、それがガリラヤだ。さらにガリラヤは、決して居心地の良いところ、快適なところではない。却って居心地の悪いところ、不快なところでさえある。 復活のイエスと出会うということ 復活のイエスと出会うということは、イエスとの人格的な交わりをいただくことであって、蘇生のイエスと出会うことではない。ガリラヤに向かい、ガリラヤに留まるならば、そこでイエスとの人格的な交わりが与えられる。すなわち、様々な課題や問題の中で、主の御言葉が響いて来て、主の御言葉が心にストンと落ちるということが起こって行く。そして、主に励まされ、支えられ、癒され、導かれる人生が始まって行く。時には主に叱られ、道を阻まれ、別の道を歩むことが強要されることもある。しかし、確かなイエスとの人格的な交わりが与えられて、イエスと共に、泣いて笑っての人生が始まって行く。これが、復活の主と共に生きる人生だ。 そして、その現場となるのがガリラヤだ。だから、私たちも私たちのガリラヤに向かい、私たちのガリラヤを引き受け、私たちのガリラヤに留まって行こう。復活のイエスは聖なる宗教的空間に、スピリチュアルな世界におられるのではない。復活のイエスはガリラヤという私たちの日常生活のただ中におられる。復活のイエスは、彼岸(ひがん)にではなく此岸(しがん)におられるのだ。 |
ホレンコ2019年3月号 「蘭島に導かれて」 私は1982年3月に神学校卒業後、埼玉県坂戸市にて開拓伝道をスタートしました。それから26年経った2008年に、私の故郷である北海道での開拓伝道の使命が与えられ、祈りつつ準備を進め、2012年に小樽市蘭島にて開拓伝道を始めました。 |
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ホレンコ2019年2月号 「わたしに何をしてほしいのか」 私の知り合いに、カブトムシ数十匹を幾つもの籠に分けて自分の部屋で飼って繁殖させている人がおります。 彼はそのカブトムシのために四六時中室内温度にも照明にも気を付け、餌はもちろんのこと、籠の中の状況にも気を使い、それこそ至れり尽くせりでカブトムシ達を育てているのです。それで商売をするためでもなく、ただ彼はカブトムシを愛しているのです。 |
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ホレンコ 2019年1月号 「新しい年を迎えて」 新年明けましておめでとうございます。
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