ホレンコの友2022年4月号

                       「愛を守る」                  
             

              日本ルーテル教団:札幌中央ルーテル教会牧師  吉田達臣

 私がキリスト教に興味を持ち始めたきっかけは、キリスト教文学でした。ドストエフスキーや遠藤周作などの小説です。少し意外性があって、不思議と感動させられてしまう。なぜなのか、20歳くらいの当時の自分は言葉にして説明することはできませんでしたが、今ならばできます。それは、罪人が救われていくからです。他の小説であれば、最後酷い目にあって終わる人が、最後のところで共に歩んでいく人が現れてくれる。イエスさまの教える愛には、罪の赦しが入っている。だからいつも、少し意外で、感動させられていました。
イエスさまが弟子たちに最後に言い残していった掟は、互いに足を洗い合い、互いにゆるし合い、イエスさまが弟子たちを愛したように、互いに愛し合うことです。でも、愛は大事だと教えられただけでは、人を愛することはできません。愛そう愛そうと、一人で力んだところで、愛が湧いて出てくるわけではありません。人を愛するためには、まず自分が愛されなければならない。自分を愛するためにも、まず誰かから愛されなければ、自分を愛することはできない。
 今は愛が冷めた時代です。映画などで昭和40年代や、50年代の映像を見ると、基本的に人が信頼し合っている。子どもは、知らない人にもあいさつをしなさいと教えられている。家の裏口から、近所の人が勝手に入ってきたりしている。醤油を隣の家に借りに行ったりしている。今では考えられない風景です。もちろん、そのような人間の近さに、わずらわしさも感じていたでしょう。でも、そこには暖かさもありました。助け合わなければ生きていけない時代には、人付き合いは自然に鍛えられている部分もありました。でも、今は、コンビニもでき、便利になり、必要な助けはお金を払って、わずらわしさなく、サービスを買うことができるようになってきました。煩わしくはなくなっても、少し孤独で、少し空しい。コロナ禍で、人と会わず、人と距離をとることが勧められ、その風潮は加速した気がします。
 何かがスムーズにいくより、躓きガあって、困難があって、考えたり、工夫したり、助け合ったり、時にはけんかもして、許し合って仲直りをして、そんな風に乗り越える仲間がいたほうが、人生豊かになる。
今キリスト者は、愛を死守しなければなりません。いつだって、ここに来れば、変わらずに喜んで出迎えられ、変わらずに赦され、変わらずに愛され、変わらずに祝福される場所が礼拝です。神さまの愛を守り伝えていきましょう。

ホレンコの友2022年3月号

            「死も神の恵みのもとに」

                 日本キリスト教団岩内教会牧師  平 宏史

 昨年は沢山の信仰の仲間が旅立って行きました。3週続けての葬儀の司式は、牧師として初めての経験でしたが、ご遺族の皆様に復活の希望と慰めを語ることが出来たのは幸いなことでした。
 初期の教会の人々は、復活して天に昇られたイエス様が、自分たちが生きている間にもう一度来られて、救いを完成して下さるという期待を持っていました。イエス様がいつの日にかもう一度来られることを「再臨」と言いますが、その再臨は直ぐに起こると考えられていました。ところが、そのようにはならず、教会のメンバーの中で眠りにつく人、つまり死んでしまう人が出始めたのです。そのことがテサロニケ教会の人々の信仰に動揺を与え始めました。「自分もイエスの再臨を見ずに死んでしまうかもしれない。そうなったら救いはどうなるのだろう。生きて再臨を迎えることが出来ないと、結局救いから漏れてしまうのではないだろうか」、そういう心配が教会の人々の中に生まれてきたのです。何故、そのようなことになったのでしょうか。
それは彼らの信仰の中に、信仰をもって生きる生活の中に、死ぬということの位置づけがなかったからです。 そこに働いているのは、この世を生きている間だけが人生であって、その間のことだけを考えればよいという思いです。この世を生きる何十年かの人生において、信仰が何がしかの慰めや安らぎを与えてくれれば、それで良いという思いです。そういう思いの中に、私たちは安住してしまうことが多いのではないでしょうか。
 パウロは、死ぬことも主イエスの救いを信じて生きる私たちの生活の中にちゃんと位置を持っている、死においても私たちは神様の恵みの中を歩むことができるのだと教えます。その根拠は、イエス様が死んで復活されたことです。イエス様の死と復活を、神様の救いの御業と信じるならば、死をあってはならないとんでもない事、救いの恵みの喪失のように思って、あわてふためく必要はないのです。死も神様の恵みの御支配の下にあり、神様が死の力を打ち破って復活の恵みを与えて下さることを、希望をもって信じることが出来るのです。
  

ホレンコの友2022年2月号

          「ブルークリスマス」                                  
                    日本キリスト教団:留萌宮園伝道所牧師  三浦忠雄

 10年前、先住民族と教会の研修に2週間ほどカナダにでかけ、多くのことを得ました。その一つに、どの教会もブルークリスマスを行うというのです。ブルーとは悲しみや悩み苦しみを背負ってもがいていたり、落ち込んでいる状態です。
誰もがみな、喜び楽しんでクリスマスを迎えるわけではありません。近い者が召されたり、病気になったり、自分の体調がすぐれなかったり、失敗や問題を抱えたりして悩み落ち込んでいる方も多くおられます。そのような方たちの思いをクリスマスの時期に礼拝の中でみんなで覚えて、慰めと平安を祈るのがブルークリスマスです。とてもいいものだと思いました。
わたしが出席した礼拝ではちょうどブルークリスマスでした。礼拝の中で牧師が「みなで悲しんでいる方、悩んでいる方を覚えて祈りあいましょう。どうぞ、祈ってほしい課題、祈って欲しい人を声を出して皆さんにお伝え下さい。声に出さずに心の中でおっしゃってください」と呼びかけました。すると、次々と祈って欲しい人の名前を出しておられました。次に、前のほうのテーブルにたくさんのロウソクが並べられていて、神さまにお願いがある方は、願いが届くようにロウソクに火を灯しましょうとの勧めがあり、十名ほどが出てきて火を灯しました。
 聖書はイエス様が「光」としてこの世に来られたことを示しています(ヨハネ1:2)。光は暗闇を明るく照らします。そして、物や人をしっかりと見ることができるようにしてくれます。また、光によって視野が広がり、気持ちものびのびさせます。さらに、光は美しく、暖かくてぬくもりをあたえ、人を導きます。
ろうそくの光を活用しつつ、悲しみ苦しんでいる人を一人にしない、一緒にブルーな思いを分かち合い、しんみりとしたクリスマスを味わう時をカナダの諸教会は持っていました。この研修以来、わたしたちの伝道所でもブルークリスマスを持つようになりました。
コロナ禍にあって短縮礼拝を続けています。その三分の一ほどの時間を使って、参列者のみなさんに、先週にあった感謝だったことや祈ってほしいことをお話しして頂く「わかちあい」を持っています。昨年のブルークリスマスもその時間をもちいて一年を振り返り、悲しかったこと不安だったことを語りあい祈りに覚えました。

ホレンコの友2022年1月号

          「いのちに触れる恵の場としての礼拝」                                  
                     日本聖公会:新札幌聖ニコラス教会牧師  上平 更

外の壁や乗り物の手すりなどに手が触れる時、どこかでそれに対して気構えている自分に気がつく時があります。もっと言えば、何かに触れる前後に両手を消毒している自分自身にさえどこか汚れているのではないかと常に意識している自分がいます。
 2020年から続く新型感染症対策のため、私たちは多くの場で誰かに触れる、何かに触るということを避けてきました。衛生管理上やむを得ないことですが、私は外出後に、この緊張感からドッと疲れを感じるようになりました。
 四つの福音書では、様々な場面で「触」という行為が描かれています。イエスが病苦に悩む人たちに「触れて」癒される場面、あるいは、彼らからイエスに「触れたい」と願い、イエスの元を訪れる場面が何度となく記録されています。聖書において「触れる」という行為は、私たちが日常に感じる以上の大切な意味があるのかもしれません。
 日本文化にも「手当て」という言葉があるように、私たちは手が相手に「触れる」だけでも癒す力があるとどこか信じています。実際に心が落ち着いたり、痛みが和らいだりする経験がある人もいるでしょう。そして、「触れる」ことで得られる安心感は、病気の有無に限らず、私たちが日常自然に求めているものかもしれません。
 日本語の「触れる」は、「触る」と読んだ途端にその言葉のイメージをガラッと変えてしまいます。私たちは自然にこの二つの表現を使い分けていますが、その根底には、触れる対象物や相手に対して自分がどう捉えているのかという心情が表れてきます。 同じ漢字を用いても「野良犬に触っちゃダメよ!」と「動物に触れることが情操教育に役立つ」で対象に対する意識の違いは明白です。
 「触る」という行為は、主体から対象への、一方的な「接触」を説明するだけです。一方、「触れる」には、対象の存在を尊重し、大胆に言ってしまえば、相手のいのちにまでもつながりを求める心の思いが込められているように感じます。創世記において、蛇はエバにエデンの園の中央に生えている木の実に「触れてもいけない」と付け加えて、彼女の欲求を刺激し、罪へと導きました。「触れられない」と禁じられることは、人間にとって、私たちの想像以上に苦しい枷なのかもしれません。
 礼拝は、そのような私たちの「触れたい」という願いに応えてくれる、キリストの体と一つになる恵みの場です。私たちの根源的な欲求、誰かと共にいたい、共に在りたいという心の渇きを癒してくれる、神との「触れ合い」の場なのです。