ホレンコの友2022年9月号       「唯一の王」
    
                      基督兄弟団北見栄光教会牧師  笠見旅人
 

 士師たちの時代の後、イスラエルの民は王を求めます。他の民族のように、力強い王がリーダーシップを発揮すれば、他国に苦しめられるような現状から脱却できると考えたからです。それを求めて譲らない頑固な民に対して、預言者サムエルはこう警告します。
 「あなたがたを治める王の権利はこうだ。あなたがたの息子たちを取り、戦車や軍馬に乗せ、自分の戦車の前を走らせる。(中略)また、あなたがたの娘たちを取り、香料を作る者や料理する者やパンを焼く者とする。(中略)あなたがた自身は王の奴隷となる。その日、あなたがたが自分たちのために選んだ王のゆえに泣き叫んでも、その日、主はあなたがたに答えはしない。」(Tサムエル記 八章11〜18節)
 民はこの警告を聞いてもなお、自分たちには王が必要であると訴えます。その要求はこれまで彼らを導いてきた神をないがしろにするものでありましたが、神はあえてそれを許され、イスラエル初代の王、サウルが立てられたのです。結果的に、サウルはサムエルの警告通りの暴君となってしまいます。さらに後に続く、ダビデ、ソロモン、そして分裂後の南北の王たちの多くも同様の面を持っていました。王が立てられる以前のイスラエルのリーダーは預言者、士師と呼ばれる人々であり、彼ら自身は大きな権威をもたず、強権を振るうことはできませんでした。だからこそ、彼らはひたすら神を仰ぎ、その助けを受けながら、民に仕える者とならざるを得なかったのです。しかし、そのようなあり方こそ、まことの神のみが王であるイスラエルのあるべき姿であったのだと思わされます。
 混乱した時代の中、世はカリスマ的なリーダーを求めることによって、安易にすべての解決を得ようとします。しかし、力を持ちすぎた人間はその罪によって、いとも簡単に独裁者になってしまう、そのことは歴史が証明しているのです。王ではありませんが、私自身の内にも、牧師、夫、父親として物事を自分の思い通りに動かそうと力を振るいたがる小さな暴君がいるのではと、時々反省させられる瞬間があります。
 私たちの王は、僕としてへりくだり、十字架に至るまで徹底して仕えてくださったイエス・キリスト以外にはおられないことを覚え、常に彼に倣う者とされたいのです。
"娘エルサレムよ、喜び叫べ。見よ、あなたの王があなたのところに来る。義なる者で、勝利を得、柔和な者で、ろばに乗って。雌ろばの子である、ろばに乗って。"(ゼカリヤ書 9章9節)

ホレンコの友2022年8月号      「門は開かれた」
                         コロサイの信徒への手紙4章2〜6節 

                日本バプテスト連盟 小樽バプテスト教会牧師 エイカーズ愛

日本バプテスト連盟が所有していた修養会施設は臨時総会によりその売却が決議されました。私も5年生の時に参加したキャンプで献身の決意が与えられた特別な場所です。感染症感染拡大による利用者減で維持管理が難しくなり決断しました。
 わたしたちの人生に起こる出来事の一つひとつには意味があります。大きな悲しみを通らされたばかりの人に「神さまのご計画がある」と言うことが常に良いとは限りません。けれど神さまは、目には見えない小さな点を、時には何十年という時間をかけて丁寧に繋ぎ、その御業を成し遂げられます。
 パウロはコロサイの信徒たちに、目を覚まして感謝を込め、ひたすら祈りなさいと命じます。パウロは、2人以上で声を掛け合い、励む時にそれは断然継続可能になりうること。さらにそのような点と点が線となり、線と線が交差して面となる時に、祈りが大きな網の目のようにして、わたしたちを包むことを、よく知っていました。この知恵は、神さまからのメッセージです。
 わたしたちは何故、ひたすら祈るのでしょう。それは、第1に、神さまの御心が成りますように。ということです。
 そして第2に、わたしたちが、神さまが御言葉のために門を開いてくださる中で、宣教しようとしている人たちがキリストの秘められた計画を十分語ることが出来るようにと執り成しの祈りをすることです。
 叩きなさい、そうすれば開かれる。との御言葉があります。「開かれる」の手話は横開きのドア。自動ドアのように、誰も押さなくても引かなくても、入ることが出来るドアです。神さまが門を開かれる。その時には、誰も力を込めて門を押す必要はない。だれも腰が痛くならないかとヒヤヒヤしながら手前に引く必要もない。安心安全な門です。神さまが、世界中にある一つひとつの教会を神の国に至る門の一つひとつとして豊かに祝福し、この日も用いてくださることを神さまに感謝します。
 そしてその暖かで安全な場所で憩う中で、神さまの愛がわたしたちの心に沁み通り、神さまの愛と聖霊の交わりとイエスさまの伴いを受ける中で、1人ひとりの信仰が成長させられてゆきます。

ホレンコの友2022年7月号    「勇気を出せ」
     
                     ウェスレアンホーリネス教団:厚別キリスト教会牧師 小林久仁子

「その夜、主はパウロのそばに立って言われた。『勇気を出せ。…』」(使徒言行録 23:11)
 この御言葉は、聖書通読で心に留まった言葉です。
 パウロは法難の中にありました。捕らえられ、多くの人々の前に連れ出され、もみ くちゃにされながらも声を上げて、「わたしは今日に至るまで…神の前で生きてきま した」と証ししています。(使徒23:1) 

 兵営に連れ戻されたその夜、パウロは、 「勇気を出せ」と主の声を聞くのです。どんなにうれしかったことでしょう。まさに 主が共におられて、パウロに語りかけられたのですから。その一言でパウロの気力は 回復し、新しい力が全身にみなぎったことでしょう。そこは獄屋であっても、パウロ にとっては主との交わりの場であったと思います。これからどうなってゆくのかわか らない現実で、主はこれから成すべきことをパウロに告げています。「ローマでも」 と。それはまた、今を生きる私たちにも語りかけておられることなのだと思います。

 私たちは12年前、厚別キリスト教会に派遣されました。前任の先生との引継ぎで、 「どうしよう」と思うことが一つありました。それは、公園に行き、子どもたちを集 めて(聖書)紙芝居を読み、教会の案内をするということでした。正直「できない」 と思いました。
 最初の日は、前任の先生がして下さいました。「すごい!」と思いました。ですか ら、次週からどうしようと本当に思いました。でも、この働きは止めてはいけない。 だから私たちは次の木曜日、意を決して出かけて行き、そして帰ってきました。
 次の日です。女の人の声で電話がありました。「やらないで下さい!」と。その声 は声高でしたが、私の心はなぜか静かでした。話を聞いて、「はい、わかりました」 と言って、受話器を置きました。
 さて、次の木曜日、私たちは公園に行き、おともだちを集め……それから帰ってきま した。次の日、苦情の電話はありませんでした。その後も、一度も、ありません。 今思うと、あの「やらないで」は、主の励ましの声だったのかもしれません。そう 思います。これからも、主の助けと導きを仰いで進んでゆきたいと願っています。
 「この福音のためにわたしは苦しみを受け、ついに犯罪人のように鎖につながれて
います。しかし、神の言葉はつながれていません。」(テモテの手紙U 2:9)

ホレンコの友2022年6月号    「信仰・希望・愛」

                   日本キリスト教会札幌琴似教会牧師 久野真一郎

 「信仰と希望と愛」この三つは、キリストに依り頼み、終わりの日を待ち望む人々の生き方そのものを端的にあらわしています。使徒パウロはコリントの信徒に宛てた手紙(一)の中で「それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つはいつまでも残る(13章13節)」と言い表しました。
 信仰とは、わたしたちが自らの確かさに依り頼むのではなく、神の確かさに依り頼むということです。アブラハムは「あなたは生まれ故郷、父の家を離れて、わたしが示す地に行きなさい(創世記12章1節)」と言われたとき、ただ主の言葉に従い、行き先も知らずに旅立ちました(ヘブライ11章8節)。パウロはアブラハムの信仰について、ローマの信徒への手紙に次のように書き記しています。「存在していないものを呼び出して存在させる神を、アブラハムは信じ、その御前でわたしたちの父となったのです(ローマ4章17節)」と。「信仰の父」と呼ばれるアブラハムの生き方は、わたしたちの人生を揺るぎないものとするものこそ信仰であることを示しています。
 また希望とは、わたしたちが生きるにしても死ぬにしても決して孤独ではなく、その全てのときにキリストが共にいてくださり、わたしたちの全てとなってくださるということです。パウロは「忍耐は練達を、練達は希望を生む(ローマ5章4節)」と記しています。わたしたちがどれほどの苦しみや行き詰まりの中に置かれるとしても、十字架に死なれ死に勝利されたキリストを仰ぐとき、わたしたちに再び生きる希望が与えられるのです。この希望は決してわたしたちを欺くことがありません。
 そして信仰と希望の結実としての愛とは、自らを惜しみなく与え続ける愛です。けれどもわたしたちの中には自己愛という壁があり、これを自分で乗り超えることはできません。それではどこに真実な愛があるのでしょうか。ヨハネによる福音書は「神はその独り子をお与えになったほどに世を愛された(3章16節)」と告げています。そうです。神が差し向けてくださった神の独り子であるキリストの十字架の愛に包まれるとき、わたしたちは自己愛の壁を超え、他者に惜しみなく与え、他者を受け入れ、互いに愛し合う愛へと変えられるのです。「すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える(1コリント13章7節)」愛に生きることができるよう、祈り求めて参りましょう。

ホレンコの友2022年5月号    「引き下がれ、サタン」        

                        日本基督教団置戸教会牧師 荒谷陽子

 この原稿を書いている3月下旬、ニュースは連日、ロシアによるウクライナ侵攻の様子を伝えています。見るも無残に破壊された家やビル。わが子を失い、悲嘆にくれる母親。絶望のうめきを上げるお年寄り。父親を残して避難する子どもの、ぬぐってもぬぐっても潤んでくる青い瞳。そんな映像の次に、プーチン大統領の顔が映ります。この人が、この惨状のすべてを起こしている…この人の頭の中は、いったい頭の中はどうなっているのだ――そう思わずにはいられません。
 主イエスは何とおっしゃるでしょうか。「父よ、彼らをお赦しください。自分たちが何をしているのか知らないのです」(ルカ23:34)――そう執り成しておられるでしょうか。
 この言葉も頭をよぎります。「サタン、引き下がれ」(マタイ16:23)。十字架の死を予告する主イエスをペトロがいさめた時の叱責です。主イエスは、「ペトロ、引き下がれ」とはおっしゃいませんでした。ペトロの心を支配する人間の思いに、退却を命じられたのです。
 自分のしていることがわかっていないとしか見受けられないプーチン大統領の心には、今どんなサタンがとりついているでしょう。自分と主義思想を異にする者への憎しみと恐怖。おのれの安寧を脅かされる不安と焦り。仲間だと思っていた者に裏切られたと感じる憤りと孤独。命の尊さや人の痛みに対する心の麻痺。後には引けないという意地とプライド。力によって万事意のままにしようとする傲慢さ、委ねることのできない頑なさ…。これらの思いは皆、私たちすべての心にも巣食っています。こうした思いに対し、主イエスは「引き下がれ」と叫ばれます。ギリシャ語の原文は、「わたしの後ろに退け」です。荒れ野でサタンの誘惑に遭われた時も、主イエスはサタンに叱責の言葉を吐かれましたが、その時はただ単に「退け」でした。でも、ペトロに対しては、「後ろに回れ」。これはまるで、「従って来い」とおっしゃっているようにも聞こえませんか。ペトロにとりついたサタンに対しては、「消え失せろ」。解き放たれたペトロには、「ついて来い」。そんな二重のメッセージが感じられてなりません。
 「わたしは悪人が死ぬのを喜ばない。むしろ、悪人がその道から立ち帰って生きることを喜ぶ。立ち帰れ、立ち帰れ、お前たちの悪しき道から」(エゼキエル33:11)。プーチン大統領のために祈りましょう。そしてどうか、気づかせていただけますように。おのれの目の中の丸太に。

 

ホレンコの友2022年4月号

                       「愛を守る」                
            

              日本ルーテル教団:札幌中央ルーテル教会牧師  吉田達臣

 私がキリスト教に興味を持ち始めたきっかけは、キリスト教文学でした。ドストエフスキーや遠藤周作などの小説です。少し意外性があって、不思議と感動させられてしまう。なぜなのか、20歳くらいの当時の自分は言葉にして説明することはできませんでしたが、今ならばできます。それは、罪人が救われていくからです。他の小説であれば、最後酷い目にあって終わる人が、最後のところで共に歩んでいく人が現れてくれる。イエスさまの教える愛には、罪の赦しが入っている。だからいつも、少し意外で、感動させられていました。
イエスさまが弟子たちに最後に言い残していった掟は、互いに足を洗い合い、互いにゆるし合い、イエスさまが弟子たちを愛したように、互いに愛し合うことです。でも、愛は大事だと教えられただけでは、人を愛することはできません。愛そう愛そうと、一人で力んだところで、愛が湧いて出てくるわけではありません。人を愛するためには、まず自分が愛されなければならない。自分を愛するためにも、まず誰かから愛されなければ、自分を愛することはできない。
 今は愛が冷めた時代です。映画などで昭和40年代や、50年代の映像を見ると、基本的に人が信頼し合っている。子どもは、知らない人にもあいさつをしなさいと教えられている。家の裏口から、近所の人が勝手に入ってきたりしている。醤油を隣の家に借りに行ったりしている。今では考えられない風景です。もちろん、そのような人間の近さに、わずらわしさも感じていたでしょう。でも、そこには暖かさもありました。助け合わなければ生きていけない時代には、人付き合いは自然に鍛えられている部分もありました。でも、今は、コンビニもでき、便利になり、必要な助けはお金を払って、わずらわしさなく、サービスを買うことができるようになってきました。煩わしくはなくなっても、少し孤独で、少し空しい。コロナ禍で、人と会わず、人と距離をとることが勧められ、その風潮は加速した気がします。
 何かがスムーズにいくより、躓きガあって、困難があって、考えたり、工夫したり、助け合ったり、時にはけんかもして、許し合って仲直りをして、そんな風に乗り越える仲間がいたほうが、人生豊かになる。
今キリスト者は、愛を死守しなければなりません。いつだって、ここに来れば、変わらずに喜んで出迎えられ、変わらずに赦され、変わらずに愛され、変わらずに祝福される場所が礼拝です。神さまの愛を守り伝えていきましょう。

ホレンコの友2022年3月号

            「死も神の恵みのもとに」

                 日本キリスト教団岩内教会牧師  平 宏史

 昨年は沢山の信仰の仲間が旅立って行きました。3週続けての葬儀の司式は、牧師として初めての経験でしたが、ご遺族の皆様に復活の希望と慰めを語ることが出来たのは幸いなことでした。
 初期の教会の人々は、復活して天に昇られたイエス様が、自分たちが生きている間にもう一度来られて、救いを完成して下さるという期待を持っていました。イエス様がいつの日にかもう一度来られることを「再臨」と言いますが、その再臨は直ぐに起こると考えられていました。ところが、そのようにはならず、教会のメンバーの中で眠りにつく人、つまり死んでしまう人が出始めたのです。そのことがテサロニケ教会の人々の信仰に動揺を与え始めました。「自分もイエスの再臨を見ずに死んでしまうかもしれない。そうなったら救いはどうなるのだろう。生きて再臨を迎えることが出来ないと、結局救いから漏れてしまうのではないだろうか」、そういう心配が教会の人々の中に生まれてきたのです。何故、そのようなことになったのでしょうか。
それは彼らの信仰の中に、信仰をもって生きる生活の中に、死ぬということの位置づけがなかったからです。 そこに働いているのは、この世を生きている間だけが人生であって、その間のことだけを考えればよいという思いです。この世を生きる何十年かの人生において、信仰が何がしかの慰めや安らぎを与えてくれれば、それで良いという思いです。そういう思いの中に、私たちは安住してしまうことが多いのではないでしょうか。
 パウロは、死ぬことも主イエスの救いを信じて生きる私たちの生活の中にちゃんと位置を持っている、死においても私たちは神様の恵みの中を歩むことができるのだと教えます。その根拠は、イエス様が死んで復活されたことです。イエス様の死と復活を、神様の救いの御業と信じるならば、死をあってはならないとんでもない事、救いの恵みの喪失のように思って、あわてふためく必要はないのです。死も神様の恵みの御支配の下にあり、神様が死の力を打ち破って復活の恵みを与えて下さることを、希望をもって信じることが出来るのです。
  

ホレンコの友2022年2月号

          「ブルークリスマス」                                  
                    日本キリスト教団:留萌宮園伝道所牧師  三浦忠雄

 10年前、先住民族と教会の研修に2週間ほどカナダにでかけ、多くのことを得ました。その一つに、どの教会もブルークリスマスを行うというのです。ブルーとは悲しみや悩み苦しみを背負ってもがいていたり、落ち込んでいる状態です。
誰もがみな、喜び楽しんでクリスマスを迎えるわけではありません。近い者が召されたり、病気になったり、自分の体調がすぐれなかったり、失敗や問題を抱えたりして悩み落ち込んでいる方も多くおられます。そのような方たちの思いをクリスマスの時期に礼拝の中でみんなで覚えて、慰めと平安を祈るのがブルークリスマスです。とてもいいものだと思いました。
わたしが出席した礼拝ではちょうどブルークリスマスでした。礼拝の中で牧師が「みなで悲しんでいる方、悩んでいる方を覚えて祈りあいましょう。どうぞ、祈ってほしい課題、祈って欲しい人を声を出して皆さんにお伝え下さい。声に出さずに心の中でおっしゃってください」と呼びかけました。すると、次々と祈って欲しい人の名前を出しておられました。次に、前のほうのテーブルにたくさんのロウソクが並べられていて、神さまにお願いがある方は、願いが届くようにロウソクに火を灯しましょうとの勧めがあり、十名ほどが出てきて火を灯しました。
 聖書はイエス様が「光」としてこの世に来られたことを示しています(ヨハネ1:2)。光は暗闇を明るく照らします。そして、物や人をしっかりと見ることができるようにしてくれます。また、光によって視野が広がり、気持ちものびのびさせます。さらに、光は美しく、暖かくてぬくもりをあたえ、人を導きます。
ろうそくの光を活用しつつ、悲しみ苦しんでいる人を一人にしない、一緒にブルーな思いを分かち合い、しんみりとしたクリスマスを味わう時をカナダの諸教会は持っていました。この研修以来、わたしたちの伝道所でもブルークリスマスを持つようになりました。
コロナ禍にあって短縮礼拝を続けています。その三分の一ほどの時間を使って、参列者のみなさんに、先週にあった感謝だったことや祈ってほしいことをお話しして頂く「わかちあい」を持っています。昨年のブルークリスマスもその時間をもちいて一年を振り返り、悲しかったこと不安だったことを語りあい祈りに覚えました。

ホレンコの友2022年1月号

          「いのちに触れる恵の場としての礼拝」                                  
                     日本聖公会:新札幌聖ニコラス教会牧師  上平 更

外の壁や乗り物の手すりなどに手が触れる時、どこかでそれに対して気構えている自分に気がつく時があります。もっと言えば、何かに触れる前後に両手を消毒している自分自身にさえどこか汚れているのではないかと常に意識している自分がいます。
 2020年から続く新型感染症対策のため、私たちは多くの場で誰かに触れる、何かに触るということを避けてきました。衛生管理上やむを得ないことですが、私は外出後に、この緊張感からドッと疲れを感じるようになりました。
 四つの福音書では、様々な場面で「触」という行為が描かれています。イエスが病苦に悩む人たちに「触れて」癒される場面、あるいは、彼らからイエスに「触れたい」と願い、イエスの元を訪れる場面が何度となく記録されています。聖書において「触れる」という行為は、私たちが日常に感じる以上の大切な意味があるのかもしれません。
 日本文化にも「手当て」という言葉があるように、私たちは手が相手に「触れる」だけでも癒す力があるとどこか信じています。実際に心が落ち着いたり、痛みが和らいだりする経験がある人もいるでしょう。そして、「触れる」ことで得られる安心感は、病気の有無に限らず、私たちが日常自然に求めているものかもしれません。
 日本語の「触れる」は、「触る」と読んだ途端にその言葉のイメージをガラッと変えてしまいます。私たちは自然にこの二つの表現を使い分けていますが、その根底には、触れる対象物や相手に対して自分がどう捉えているのかという心情が表れてきます。 同じ漢字を用いても「野良犬に触っちゃダメよ!」と「動物に触れることが情操教育に役立つ」で対象に対する意識の違いは明白です。
 「触る」という行為は、主体から対象への、一方的な「接触」を説明するだけです。一方、「触れる」には、対象の存在を尊重し、大胆に言ってしまえば、相手のいのちにまでもつながりを求める心の思いが込められているように感じます。創世記において、蛇はエバにエデンの園の中央に生えている木の実に「触れてもいけない」と付け加えて、彼女の欲求を刺激し、罪へと導きました。「触れられない」と禁じられることは、人間にとって、私たちの想像以上に苦しい枷なのかもしれません。
 礼拝は、そのような私たちの「触れたい」という願いに応えてくれる、キリストの体と一つになる恵みの場です。私たちの根源的な欲求、誰かと共にいたい、共に在りたいという心の渇きを癒してくれる、神との「触れ合い」の場なのです。