ホレンコの友 2021年9月号       「ホレンコのはたらき」
                           日本キリスト教団 小栗昭夫

 「君は君 我は我なり されど仲良き」 武者小路実篤のこの名言に大いに感動したのは十代の半ばでした。当時は、一年間に100冊の文学書を読もうと、手当たり次第に文庫本を読み漁っていた時期でした。なぜ、文庫本を、というと、その方が間違いなく目標を達成できそうだ、との打算からでしたが、これには別の理由がありました。 ひとつは、第二反抗期に入り、親兄弟と顔を合わせて口喧嘩ばかりすることが馬鹿らしくなり、なるべく一人で時間を過ごしたくなったこと。
もう一つは、不安定な自分の情緒を少しでも落ち着かせるために、自分の知らない世界を書物の中で遍歴してみたかったことでした。つまり、自分のアイデンティティーを探し求めた時期でもあったのだと思います。
 まさにそんな時期に、ラジオ深夜放送を聞き流しながら読書をしていたら、心静まる音楽が流れてきました。それは賛美歌でした。心に沁み入る、穏やかな、心の安らぐ曲であった事を覚えていますが、何番の曲であったかは全く思い出すことはできません。
 しかし、その時期を境に、私の読書内容がすっかり変化しました。それまでの場当たり的な書籍選びから、キリスト教的な色彩のある西洋の小説を好んで読むようになり、合わせて聖書通信講座にも申し込んでキリスト教についての学びを始めました。当初は、添削されて戻って来るレポートには「頭ではなく、心で聖書を読んでみましょう」とのアドバイスが多かったように記憶しています。さらに、講座事務局からの紹介で徒歩10分ほどの場所にあった「霊南坂教会」を紹介されました。ここで飯 清牧師より洗礼を受けました。元北光教会におられた岸本和世牧師が伝道師のころでした。あれから、早60年の歳月が流れました。
 先日、“そろそろ本気で断捨離を”と何度目かの思いを持って、耐え難きを耐えつつまずは古い書物の整理をしていたら、十代のアルバム集の中に、冒頭の武者小路実篤の言葉が書かれた色紙が出てきました。手に取って色々と思いをめぐらしていると、ふと、ホレンコの存在理由に行き着く言葉であることに思いが至りました。
ホレンコはおよそ20の教派教団から推薦されてきた幹事の皆さんが、その神学的立場や強調点の相違にも拘わらず、それぞれのアイデンティティーをしっかりと保ちつつ、なお一つになって、イエス・キリストの御名を世に伝えるために活動している北海道唯一の超教派的宣教団体です。これまでも財政的な困難さを担いつつも、全道の皆さんの温かいお支えによって、その働きを推進させて頂くことができました。これから先も主の恵みの中で福音を世に広げる働きを進めて行くことができますように、と心から祈りを捧げるひとときとなったのでした。(ホレンコ幹事長)

ホレンコの友 2021年8月号       「大好きなのよ!」                            
                             日本ホーリネス教団 札幌教会牧師 土屋勇人

 私には二人娘がいますが、二人ともいたずら好きで困っています。下の娘はまだ幼いので、いたずらをして叱られても怒られたことの方が大きいようで、「抱っこ」と言ってきます。しかし、上の娘がいたずらをした時にも、もちろん同じように叱ります。しかし、叱られた後、上の娘は「大好きなのよ!」と言いながら抱きつきます。「大好きなのよ」という言葉が娘たちの怒られた後の違いなのです。そして、その姿はとても可愛いのですが、本人としては「お父さんに嫌われたくない。」という思いで必死伝えているので。私は、「大好きなのよ!」と言われた時は、もちろん「お父ちゃんも大好きだよ」と返し、叱った理由を丁寧に説明します。そうすると、「ごめんね」と言って、一緒にお祈りをするのです。そうすると、満足したような顔をして去っていきます。たぶん、「私はお父さんに嫌われていない」ということがわかって満足したのだと思います。多分、怒られたことも忘れてしまっているのかもしれません。
 私たちは、主イエス様の十字架を信じて救われる時に主の前に悔い改めをします。しかし、救われた後も罪を犯してしまう肉の弱さにいつも悩まされています。ですから、罪を犯すたびに悔い改めをしていくのです。しかし、悔い改めをする時に、「神様、私を赦してくださる」と確信を持ちながら、「本当に許してくださっているのですか?」と、思ってしまうこともあります。何度も同じ罪を犯してしまい、主に喜ばれるようになりたいと思いながらも、日毎の生活の中で罪を犯してしまうのです。しかし、主はその私を愛してくださっているのです。「だから、兄弟たちよ、この事を承知しておくがよい。すなわち、このイエスによる罪のゆるしの福音が、今やあなたがたに宣べ伝えられている。」(使徒行伝13章38節)
 私たちが許される根拠は、ただ一つ主イエス・キリストの福音によってのみです。父なる神は、独り子の主イエスを十字架に掛けて、私たちの罪の贖いとしてくださるほどに愛してくださっているのです。この愛は、昔の話でも、未来の話でもあるのですが、それ以上に今、私は愛されて、赦されて主イエスの十字架の罪の贖いよって許されている、今の私にとっての恵みなのです。私たちは、父なる神に愛されているのです。それは、私たちが完璧だったからではなく、欠けだらけの弱い者だからこそ、完璧な愛をもって愛されているのです。その愛を豊かに受け止める時、「イエスによる罪のゆるしの福音」によって許されていることがもっとわかるのです。

ホレンコの友 2021年7月号       「あのすばらしい家族伝道をもう一度」

                         日本キリスト教団 利別教会牧師 石橋隆広 

         「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます。」
                                        (使徒言行録16章31節)
 
 最近、信徒の親御様の葬儀を2度執り行いました。コロナ禍もあり、病床洗礼はできませんでしたが、ご本人の信仰を確認していただき、キリスト教の葬儀となりました。このことで改めて「家族伝道」について考えさせられました。以前は「牧師はICU(集中治療室)にも入れるし、臨終にも立ち会うことができます」と説明しておりましたが、現在の状況では、よくてもリモートで、まして家族であっても臨終に立ち会うことはむずかしいです。これは、病院だけでなく、高齢者施設においても同じで面会がむずかしい状況です。少子高齢化は、教会にも例外なく影響があります。高齢ということは、伝道の期間が長くなったと前向きに考えられますが、施設によっては、秋から春にかけて半年近く訪問が制限されています。親類の関係で教会から遠い施設に入られれる方もおられます。
 そこで、まず、自分がイエス様にお会いした時の感動をもう一度祈りの内に思い起こしていただき、喜びのあまり周りにいる人に伝えたくてしかたなくなった時の情熱を燃やしていただきたいと願います。そして、お子さんやお孫さんにイエス様ことを絵本や映像(インターネットも含む)でお伝えするところから始めてみてはどうでしょうか。また、ご家族には、ラジオを流しながら時を過ごしたり、録音したものを聴き直したり、遠方のご親戚には、ラジオ放送のスケジュールを毎月お送りしてみてはどうでしょうか。今も昔も継続することが実を結ぶ近道であるようです。しかも、定期的というのがいいようです。
 これまでは、死生観を他人事のように思っていた方も新型コロナウイルスによって、改めて命の尊さについて考えてみたり、将来の不安をどのように解決するのかを求めておられるのではないでしょうか。
 今日の表題を見て、あの曲を文字ってるなとお感じのあなた。今がもう一度家族伝道のチャンスがきています。ここ数年家族愛がテーマとなった曲が一般でも流れています。背中で語ることもいいですが、言葉で伝えてみませんか。


 ホレンコの友 2021年6月号    「主のなさることは」
                                 福音バプテスト宣教団
                           コイノニアキリスト教会 牧師 平吹貞夫

 新型コロナウイルスによる不自由な生活を強いられたこの一年を振り帰るとき、「主のなさることは、すべて時にかなって美しい。」(伝道者の書3章11節a)とのみことばが心に浮かびました。 それで、経験させて頂いた二つの出来事を紹介させて頂きます。 先日、新型コロナウイルスワクチン接種予約受付をする事になり、携帯電話とコンピューターで何度も接続を試みましたが繋がりません。せめて96歳の母だけでもと妻と妹も加わり接続を試みましたが誰も繋がりませんでした。
 その日は、前日から宣教団理事会のために道南の北斗市から朴先生が我が家に宿泊されていました。先生に事情をお伝えすると、ご自分の携帯電話で接続を試みてくださいました。暫くして先生は「主よ?!」と力強く祈られました。すると繋がったのです。そして母の予約がなされ、次いで私、妻、妹と全員の予約を次々に取ってくださいました。
 先生は、「私はこの為にここに泊めていただく事に主は決めておられたのですね!お役にたててよかったです。」と主を賛美しながら帰って行かれました。 前日、私たち夫婦は先生にお泊まり頂いても何のおかまいも出来ないのではと案じていたのです。しかし、主が私たちの必要の為に先生を宿泊させてくださっていた事に感謝しました。 その時、神のご支配される全ての出来事の「時」は美しく喜びとなるとの約束である「主のなさることは、すべて時にかなって美しい。」(伝道者の書3章11節a)とのみことばが心に浮かびました。 また、この一年はコロナ禍にあって、伝道集会をはじめ教会のほとんどの活動が中止となりました。しかし、このような状況の中だからこそ得るものもありました。その一つは、リーモートによる聖日礼拝の配信です。
 以前は、自宅療養の為などで礼拝に出席できずにおられた方々には後日、教会ホームページで礼拝メッセージを聞いて頂いていました。しかし、コロナ禍だからこそ、YouTubeやLINEの配信によってライブで礼拝に参加して頂けるような設備を整えることが出来ました。このコロナ禍だからこそ、神のご支配される全ての出来事の「時」は美しく喜びとなるとの約束を体感することができました。 人類が招いた温暖化により、これからも新たなウイルスなどによる不自由な日々は続くように思われます。だからこそ、私たちは祈りつつ主のみことばにたち、神のご支配される全ての出来事の「時」は美しく喜びとなるとの約束を信じ、これからも前向きに信仰生活を歩ませて頂きたいものです。「主のなさることは、すべて時にかなって美しい。」のですから。


 ホレンコの友 2021年5月号     『神の霊はすべての人に』
                          日本キリスト教団名寄教会牧師 日向恭司

 今年のペンテコステは5月23日となっています。使徒言行録2章に記されているように、約2000年前のこの日、弟子たちに聖霊が降ったところから、キリスト教の福音宣教が本格的に始まりました。それは、誰一人として宗教家としての資格を持たない、「信徒運動」として始まったということを見逃してはなりません。 ちなみに北海道および日本の福音宣教に多大な影響と功績を残した「札幌バンド」という信仰のグループがありました。「熊本バンド」「横浜バンド」と並んで、日本のプロテスタント教会発祥の地とされています。彼らは今の北海道大学、昔の札幌農学校のクラーク博士の生徒たちで、その中心メンバーに内村鑑三や新渡戸稲造らがいました。「札幌バンド」の運動も、誰一人として伝道者の資格を持たない信徒による宣教で、そのことが問題とされたこともありましたが、彼らは教会(独立教会)を建てて、その働きを広げ、今も彼らの宣教の実は力強く残されています。内村鑑三は北海道を離れてから「無教会派」として、必ずしも牧師や神父の指導を必要としない、教会の組織に所属しない形の信仰の在り方を追求しました。 北海道では、礼拝の説教を信徒が担当するということが、比較的多くの教会で行われているように思います。多くの教会が牧師不在の期間を経験し、地方では教会間の距離が離れていて全ての日曜日に牧師を呼ぶことが難しい事情があるということも理由の1つでしょう。
 しかし日本全体で見ると、キリスト教会は神父や牧師のような教職者と信徒の区別が必要以上に残されている教会が多いように思います。「牧師は神の言葉を受けて福音を語り、信徒は聞いて従う」というような、一方通行的な教会観が根強く残っていて、信徒一人一人に与えられている「福音の言葉」を聴こうとする思いが乏しいといえるかも知れません。 そんな思いもあって、わたしはこれまでどの教会でも、礼拝で信徒による奨励を聴くことを大切にしてきました。 自分で牧師をしながら、「牧師ってどうしても必要なものだろうか」と考え続けてきた部分もあります。考え、迷いつつも、やはり必要だと思うので今まで続けて来ることができました。それでも、信じる者すべてに神の霊が注がれていることと、皆が福音の力を持って生かされているということには、疑う余地はありません。ペンテコステの日を控えて、改めて教職者も信徒も心を合わせ、それぞれの賜物を生かして、皆で共に神様の御心を地上に現していきたいと思うのです。


 ホレンコの友 2021年4月号    「殻が砕けてから」
                     日本バプテスト同盟:札幌北野キリスト教会牧師 岡口 学

 落語/講談に「鼓ヶ滝」というお話があります。  歌人として名の知られる西行が、摂津の鼓ヶ滝(現在の兵庫県川西市)を訪れた時のこと。老夫婦と孫娘が住む家で、もてなしを受けた西行は、求められるままに鼓ヶ滝の歌を披露します。ところが自信のあった歌を、自分の作ったものよりも良い形に直され、自信を失います。すると一陣の風が吹きます。気がつけば、民家はどこにもなく、そこは鼓ヶ滝の前でした。神さまが自分の傲りを戒めに現れたものと思い、心を入れ替えた西行は、のちに日本一に相応しい歌人となりました。というお話です。  しかし自分の才能を誇りとし、他者を自分より劣ったものと侮る人が、一瞬にして自分の傲りから自由になるものでしょうか。侮っていた相手に自分より優れた才能を見せつけられた屈辱、自信のある仕事が自分で思っていたほどの価値はなかったと理解した時の悔しさ、事実を素直に受け入れられない心の葛藤は瞬間的に終わるようなものではなく、むしろ長く本人を悩ませたのではないでしょうか。  イースターの卵は、死を打ち破るイエス様の、そしてこの世界に与えられている復活の恵みの象徴とされてきました。しかし、復活されたイエス様と出会い、新しい命に生きる人は一日にして完成するものではないと聖書は教えています。 わたしは、キリストとその復活の力とを知り、その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら、何とかして死者の中からの復活に達したいのです。(フィリピ3:10−11) わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによることです。(コリント第二3:18)  実際に卵から出てくる新しい命は、始めは傷つきやすい小さな存在です。従ってイースターの卵は、ひよこが成長して鶏になるように、殻が砕かれた人が復活のイエス様のお姿に近づいていく成長の恵みの象徴でもあるのかも知れません。  挫折や失望や、罪深さを自覚し砕かれることは、悩みの日々でもあるでしょう。しかしその悩みは、人を傲りから解き放つため、神様が与えて下さった成長痛なのかも知れません。打ち砕かれることは、新しい命が始まった喜びであると同時に、大きく成長するための新たな冒険の始まりでもあるのでしょう。死の殻を砕き復活された命の神、イエス様は、私たちの殻を砕き、新しい命の中で成長させて下さる方です。


 ホレンコの友 2021年3月号    「黙想:水のほとりに植えられた木」
             日本聖公会北海道教区司祭聖マーガレット教会・岩見沢聖十字教会 池田亨

 もし「あなたにとって春をもっとも感じさせる植物は何ですか?」と問われるならば、わたしは「ヤナギ」と即答します。桜の花でも、梅の花でもなく、何といっても、早春を告げる、芽吹くヤナギです。  北大南門に隣接する私共の主教座聖堂・札幌キリスト教会に勤務していたとき、北大構内を流れる小川、サクシュコトニ川のほとりのシダレヤナギの芽吹きの美しさに目を奪われたことがあります。どの木々よりも、早く芽吹き、春を告げていました。天から流れ降るような芽吹きの枝は春の陽に照らされて瑞々しく淡く黄緑色に光っていました。それ以来、毎春、待ちに待っている光景なのです。  わたしの所属する日本聖公会北海道教区は、毎年、宣教のための聖句を選びます。この2021年は「祝福されよ、主に信頼する者は。」(エレミヤ17:7a)が選ばれました。この聖句に続く御言葉は次のように記されます。 「主がその人のよりどころとなられる。彼は水のほとりに植えられた木。水路のほとりに根を張り 暑さが襲うことを見ることなく その葉は青々している。干ばつの年にも憂いがなく 実を結ぶことをやめない。」(エレミヤ17:7b-8) エレミヤは、水のほとりに植えられた木(おそらくナツメヤシ)にたとえて、主に信頼する者への祝福を記します。  よく北大の構内を散策し、北大のシダレヤナギを見るにつけ、このイメージを想起します。ヤナギは春一番に芽吹きます。そして、水のほとりにあるゆえ、夏の日照りにも生き生きしています。晩秋、他の落葉樹が葉を落しても、なお、雪が降るまで葉は緑を保つのです。実に生命力あふれる樹木です。かつて、台風で北大のエゾヤマザクラの大木が倒れたことがありました。しかし、シダレヤナギは、しなやかに強風をかわしていたのでした。柔軟性を感じさせます。ヤナギから信仰的な気づきを与えられるのでした。  わたしたちは、東日本大震災から10年、その追悼の記念日を迎えます。そこから何を学び、変えられたのか、自問します。  そして、コロナ禍の渦中、なかなか出口が見えないトンネルのような中で…。あたかも「干ばつの年」のさなかで。  しかし、にもかかわらず主によって保たれている恵みと希望を憶えたいのです。なおも、主に信頼する者へと導かれたいのです。水のほとりに植えられた木のように。 (ホレンコ幹事)


 ホレンコの友 2021年2月号  「負けて信をとる」  ヨハネによる福音書 16章25ー33節                           日本キリスト教団:室蘭知利別教会牧師 石川宣道

 浄土真宗8代目住職蓮如の生きた時代も疫病が流行りました。手紙の中で「疫病が流行り亡くなる人も多いが、それは驚くことではない。人が生まれたその時から、死ぬ事は定められている事。死は疫病によってもたらされたのでは無く、誰にでも予めあったもの。だからこそ、阿弥陀如来は信心する者を救われるのだ」と書いています。同じ頃、応仁の乱から11年もの乱世の戦が起こり、多くの人が亡くなります。蓮如は本願寺8代ですけれど、彼が受け継いだ時の本願寺は寂れた寺で、自身はその寺にさえ身を残せず各地を転々と回り、随分と大変な人生のようです。
 蓮如は苦労する人生の中で、釈迦は「怨憎会苦(おんぞうえく)」、うらみ憎む相手と会う苦しみがあると言い、親鸞は「智者遠離(ちしゃおんり)」、だから知恵ある者はそれから遠ざからなければならない」と言っているのを学びます。蓮如自身は、さらに「無我にて候ううえは、人に負けて信をとるべきなり」と残しました。「私がという思いを残していると、無我にはならない。人との勝ち負けから自ら負けることを選び、信心を得るのだ」と蓮如は言います。蓮如が生きた時代の混乱や、自身が各地を転々としたことから見出したのかもしれません。
 イエス様はご自身の事も、弟子たちにも「世には苦難がある」と言います。私達も同様です。しかし「四苦八苦」する人生も、すでに神様の愛を受け、救い主であるイエス様と歩んでいるから、イエス様を信頼し安心して生きていこう、私の重荷をイエス様も担ってくださっているのだ、と福音が宣言されています。
 蓮如は「人に負けることで信心を得ること」を説きましたが、私は「神様負けました。イエス様負けました」となることをお薦めします。「神様には敵いません。あなたを信頼し、この身も心もあなたに寄せて生きていきます」、「救い主イエス様、参りましたからキリストであるあなたにお任せします」と。
 目に見えないウイルスによって不安は増し、そのウイルスは病だけでなく、人への不信や差別も増幅させているようです。神様も目には見えない存在ですけれど、今日の聖書で、神様があなたをどれだけ愛しておられるか、イエス様もどれほどあなたを大切にされているかを知らされました。小さく頼りない自分自身ではなく、大きな大きな神様の深い愛に負けました、と。自分を包み込む神様の存在に気づいて受け入れていきましょう。


 ホレンコの友 2021年1月   「十字架の言葉」
                           日本基督教団中標津伝道所牧師 石垣弘毅

 ホレンコをお聴きの皆様、新年明けましておめでとうございます。と言っても、今、私がペンを取っているのは2020年12月1日、アドベント1週目を迎えた日の朝です。この年を振り返るとコロナ問題で明け暮れた一年でした。そして今もその渦中にあります。一体、これからどうなっていくのでしょうか。不安です。
アドベントは真の光、救い主、神の御子イエス・キリストが私たちの暗闇の世界に来てくださる喜びを待ち望む希望の時です。それはワクワクする楽しい時であって欲しいと思います。しかし、そうはならない現実があります。こうやってペンを取っている今も、ニュースが飛び込んできました。私の住む道東の小さな町、中標津町で昨夜、火事があり、6歳と4歳の男の子が亡くなったという知らせです。今、ご両親はどんなにか深い悲しみと絶望の中にいることでしょうか。本当に救い主は来てくださるのでしょうか。私たちが宣教する喜びの福音はどこにあるのでしょうか。
この世の理不尽な現実の中で嘆きと問いを神様の前に差し出しながら、福音宣教者パウロの言葉を聴きたいと思います。
「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。」(コリントの信徒への手紙一 1章18節)
世を救うために来て下さった神の子イエス様が神の助けを一つも得ることなく無残な十字架の死を遂げられたという事実、ここに「十字架の言葉」があります。人々から理解されず排除され、呪いを受けながら長寿を全うすることもなく人生を終える、そんなイエス様のご生涯は幸いであるなどと、私たちには思えないかもしれません。
しかしパウロは、このイエス様のご生涯こそが神の福音であり、私たちの生きる力、喜びと希望の源泉、神の力であると言うのです。それは主イエスの十字架の出来事は死で終わるものではなく、新しい命、復活の命をもたらし、死と罪を滅ぼす神の救いの出来事へと導く土台の石であるからです。
コロナの問題を始め、私たちに聞こえてくる悲しい出来事の数々、それはまさに十字架の言葉ではないでしょうか。この十字架の言葉は死と呪いで終わるものではないはずです。神様が用意してくださっている新しい創造、いのち、救いの出来事に信頼しつつ、祈りのうちに希望をもって新しい年を歩み出しましょう。