ホレンコの友 2021年4月号    「殻が砕けてから」
                     日本バプテスト同盟:札幌北野キリスト教会牧師 岡口 学

 落語/講談に「鼓ヶ滝」というお話があります。  歌人として名の知られる西行が、摂津の鼓ヶ滝(現在の兵庫県川西市)を訪れた時のこと。老夫婦と孫娘が住む家で、もてなしを受けた西行は、求められるままに鼓ヶ滝の歌を披露します。ところが自信のあった歌を、自分の作ったものよりも良い形に直され、自信を失います。すると一陣の風が吹きます。気がつけば、民家はどこにもなく、そこは鼓ヶ滝の前でした。神さまが自分の傲りを戒めに現れたものと思い、心を入れ替えた西行は、のちに日本一に相応しい歌人となりました。というお話です。  しかし自分の才能を誇りとし、他者を自分より劣ったものと侮る人が、一瞬にして自分の傲りから自由になるものでしょうか。侮っていた相手に自分より優れた才能を見せつけられた屈辱、自信のある仕事が自分で思っていたほどの価値はなかったと理解した時の悔しさ、事実を素直に受け入れられない心の葛藤は瞬間的に終わるようなものではなく、むしろ長く本人を悩ませたのではないでしょうか。  イースターの卵は、死を打ち破るイエス様の、そしてこの世界に与えられている復活の恵みの象徴とされてきました。しかし、復活されたイエス様と出会い、新しい命に生きる人は一日にして完成するものではないと聖書は教えています。 わたしは、キリストとその復活の力とを知り、その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら、何とかして死者の中からの復活に達したいのです。(フィリピ3:10−11) わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによることです。(コリント第二3:18)  実際に卵から出てくる新しい命は、始めは傷つきやすい小さな存在です。従ってイースターの卵は、ひよこが成長して鶏になるように、殻が砕かれた人が復活のイエス様のお姿に近づいていく成長の恵みの象徴でもあるのかも知れません。  挫折や失望や、罪深さを自覚し砕かれることは、悩みの日々でもあるでしょう。しかしその悩みは、人を傲りから解き放つため、神様が与えて下さった成長痛なのかも知れません。打ち砕かれることは、新しい命が始まった喜びであると同時に、大きく成長するための新たな冒険の始まりでもあるのでしょう。死の殻を砕き復活された命の神、イエス様は、私たちの殻を砕き、新しい命の中で成長させて下さる方です。


 ホレンコの友 2021年3月号    「黙想:水のほとりに植えられた木」
             日本聖公会北海道教区司祭聖マーガレット教会・岩見沢聖十字教会 池田亨

 もし「あなたにとって春をもっとも感じさせる植物は何ですか?」と問われるならば、わたしは「ヤナギ」と即答します。桜の花でも、梅の花でもなく、何といっても、早春を告げる、芽吹くヤナギです。  北大南門に隣接する私共の主教座聖堂・札幌キリスト教会に勤務していたとき、北大構内を流れる小川、サクシュコトニ川のほとりのシダレヤナギの芽吹きの美しさに目を奪われたことがあります。どの木々よりも、早く芽吹き、春を告げていました。天から流れ降るような芽吹きの枝は春の陽に照らされて瑞々しく淡く黄緑色に光っていました。それ以来、毎春、待ちに待っている光景なのです。  わたしの所属する日本聖公会北海道教区は、毎年、宣教のための聖句を選びます。この2021年は「祝福されよ、主に信頼する者は。」(エレミヤ17:7a)が選ばれました。この聖句に続く御言葉は次のように記されます。 「主がその人のよりどころとなられる。彼は水のほとりに植えられた木。水路のほとりに根を張り 暑さが襲うことを見ることなく その葉は青々している。干ばつの年にも憂いがなく 実を結ぶことをやめない。」(エレミヤ17:7b-8) エレミヤは、水のほとりに植えられた木(おそらくナツメヤシ)にたとえて、主に信頼する者への祝福を記します。  よく北大の構内を散策し、北大のシダレヤナギを見るにつけ、このイメージを想起します。ヤナギは春一番に芽吹きます。そして、水のほとりにあるゆえ、夏の日照りにも生き生きしています。晩秋、他の落葉樹が葉を落しても、なお、雪が降るまで葉は緑を保つのです。実に生命力あふれる樹木です。かつて、台風で北大のエゾヤマザクラの大木が倒れたことがありました。しかし、シダレヤナギは、しなやかに強風をかわしていたのでした。柔軟性を感じさせます。ヤナギから信仰的な気づきを与えられるのでした。  わたしたちは、東日本大震災から10年、その追悼の記念日を迎えます。そこから何を学び、変えられたのか、自問します。  そして、コロナ禍の渦中、なかなか出口が見えないトンネルのような中で…。あたかも「干ばつの年」のさなかで。  しかし、にもかかわらず主によって保たれている恵みと希望を憶えたいのです。なおも、主に信頼する者へと導かれたいのです。水のほとりに植えられた木のように。 (ホレンコ幹事)


 ホレンコの友 2021年2月号  「負けて信をとる」  ヨハネによる福音書 16章25ー33節                           日本キリスト教団:室蘭知利別教会牧師 石川宣道

 浄土真宗8代目住職蓮如の生きた時代も疫病が流行りました。手紙の中で「疫病が流行り亡くなる人も多いが、それは驚くことではない。人が生まれたその時から、死ぬ事は定められている事。死は疫病によってもたらされたのでは無く、誰にでも予めあったもの。だからこそ、阿弥陀如来は信心する者を救われるのだ」と書いています。同じ頃、応仁の乱から11年もの乱世の戦が起こり、多くの人が亡くなります。蓮如は本願寺8代ですけれど、彼が受け継いだ時の本願寺は寂れた寺で、自身はその寺にさえ身を残せず各地を転々と回り、随分と大変な人生のようです。
 蓮如は苦労する人生の中で、釈迦は「怨憎会苦(おんぞうえく)」、うらみ憎む相手と会う苦しみがあると言い、親鸞は「智者遠離(ちしゃおんり)」、だから知恵ある者はそれから遠ざからなければならない」と言っているのを学びます。蓮如自身は、さらに「無我にて候ううえは、人に負けて信をとるべきなり」と残しました。「私がという思いを残していると、無我にはならない。人との勝ち負けから自ら負けることを選び、信心を得るのだ」と蓮如は言います。蓮如が生きた時代の混乱や、自身が各地を転々としたことから見出したのかもしれません。
 イエス様はご自身の事も、弟子たちにも「世には苦難がある」と言います。私達も同様です。しかし「四苦八苦」する人生も、すでに神様の愛を受け、救い主であるイエス様と歩んでいるから、イエス様を信頼し安心して生きていこう、私の重荷をイエス様も担ってくださっているのだ、と福音が宣言されています。
 蓮如は「人に負けることで信心を得ること」を説きましたが、私は「神様負けました。イエス様負けました」となることをお薦めします。「神様には敵いません。あなたを信頼し、この身も心もあなたに寄せて生きていきます」、「救い主イエス様、参りましたからキリストであるあなたにお任せします」と。
 目に見えないウイルスによって不安は増し、そのウイルスは病だけでなく、人への不信や差別も増幅させているようです。神様も目には見えない存在ですけれど、今日の聖書で、神様があなたをどれだけ愛しておられるか、イエス様もどれほどあなたを大切にされているかを知らされました。小さく頼りない自分自身ではなく、大きな大きな神様の深い愛に負けました、と。自分を包み込む神様の存在に気づいて受け入れていきましょう。


 ホレンコの友 2021年1月   「十字架の言葉」
                           日本基督教団中標津伝道所牧師 石垣弘毅

 ホレンコをお聴きの皆様、新年明けましておめでとうございます。と言っても、今、私がペンを取っているのは2020年12月1日、アドベント1週目を迎えた日の朝です。この年を振り返るとコロナ問題で明け暮れた一年でした。そして今もその渦中にあります。一体、これからどうなっていくのでしょうか。不安です。
アドベントは真の光、救い主、神の御子イエス・キリストが私たちの暗闇の世界に来てくださる喜びを待ち望む希望の時です。それはワクワクする楽しい時であって欲しいと思います。しかし、そうはならない現実があります。こうやってペンを取っている今も、ニュースが飛び込んできました。私の住む道東の小さな町、中標津町で昨夜、火事があり、6歳と4歳の男の子が亡くなったという知らせです。今、ご両親はどんなにか深い悲しみと絶望の中にいることでしょうか。本当に救い主は来てくださるのでしょうか。私たちが宣教する喜びの福音はどこにあるのでしょうか。
この世の理不尽な現実の中で嘆きと問いを神様の前に差し出しながら、福音宣教者パウロの言葉を聴きたいと思います。
「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。」(コリントの信徒への手紙一 1章18節)
世を救うために来て下さった神の子イエス様が神の助けを一つも得ることなく無残な十字架の死を遂げられたという事実、ここに「十字架の言葉」があります。人々から理解されず排除され、呪いを受けながら長寿を全うすることもなく人生を終える、そんなイエス様のご生涯は幸いであるなどと、私たちには思えないかもしれません。
しかしパウロは、このイエス様のご生涯こそが神の福音であり、私たちの生きる力、喜びと希望の源泉、神の力であると言うのです。それは主イエスの十字架の出来事は死で終わるものではなく、新しい命、復活の命をもたらし、死と罪を滅ぼす神の救いの出来事へと導く土台の石であるからです。
コロナの問題を始め、私たちに聞こえてくる悲しい出来事の数々、それはまさに十字架の言葉ではないでしょうか。この十字架の言葉は死と呪いで終わるものではないはずです。神様が用意してくださっている新しい創造、いのち、救いの出来事に信頼しつつ、祈りのうちに希望をもって新しい年を歩み出しましょう。