ホレンコの友12月号   『良いほう』 を先ず選んだ上で

                             
基督兄弟団 札幌栄光教会牧師 上野謙一

よいよアドベントに入りました。うちの教会のGKC(グローリー キッズ クラブ:教会学校)では、これから老人ホームへの慰問でクリスマスの歌や合奏、紙芝居を行う予定があり、今、その特訓に子どもたちが奮闘中です。
 どこの教会でも様々なクリスマス集会や催しが計画され、その準備が進められていることでしょう。何らかの形でそれらにかかわる一方、年末でもありますから、いつもはない用事も次々加わり、私たちは、ついつい忙しく慌ただしく過ごしがちになります。
 そのような中で、せっかく喜んで主のためにと奉仕をしていながら不満を募らせ、ついに怒りを爆発させてしまったマルタ(ルカ10:40)のようにならないよう気をつけたいものです。
 とは言え、もし皆がマリヤのように「主の足もとにすわって、みことばに聞き入って」(同上39節 新改訳)ばかりであったとしたら、どうなってしまうでしょう。マルタは「イエスを喜んで家にお迎えし」(同上:38 新改訳)、「いろいろのもてなしのためせわしく立ち働いていた」(同上:40 新共同訳)のです。その「もてなし」とは「奉仕」とも訳される原文では「ディアコニア」という言葉で、紛れもなくそれは信仰者が主イエスに仕える姿を表しているのです。このような信仰者とその奉仕がなければ教会は立ち行きません。
 ところが、そのマルタがマリヤの態度に遂にキレてしまい、その矛先を当のマリヤではなく主イエスに向け、「主よ。妹が私だけにおもてなしをさせているのを、何ともお思いにならないのでしょうか。私の手伝いをするように、妹におっしゃってください」(同上:41 新改訳)と八つ当たりをしてしまうのです。その気持ち、よく分かりますが、こうなっては何もかもぶち壊しです。
 こうならないために、また、アドベントを主イエス・キリストの御降誕を喜び迎え、またその再臨を待ち望む信仰を新たにする機会として過ごすためにも、主イエスのマルタへの返答に傾聴しましょう。
 「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している」(同上:41 新共同訳)。「しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。マリヤはその良いほうを選んだのです。彼女からそれを取り上げてはいけません」(同上:42 新改訳)。
 そして、日々その「良いほう」を先ず選んだ上でその場から立ち上がり、マルタに続く者とならせていただきましょう。 (ホレンコ幹事)

ホレンコの友11月号   「言うことを聞かない人間として」                   
                       
                      札幌バプテスト教会 牧師 石橋 大輔 

我が家には五人の子どもがいます。ある時、四歳の三男に「ロボットをつくるとしたら、言うことをきくロボットをつくる?それとも、言うことをきかないロボットをつくる?」と尋ねました。当然、「言うことをきくロボットをつくる」という答えを期待して、その質問を投げかけたのですが、三男は間髪入れずに「言うことを全然きかないロボットをつくる!!」と答えました。意外な答えに「え?なんで?」と尋ねると、「だって、その方が面白いじゃん!!」と言うのです。もはや彼が何をどう面白がっているのかすら、大人の私には理解不能でしたが、そもそも彼を誘導尋問しようとしていた自分自身が情けなく感じさせられたやり取りでした。牧師である私は、四歳の息子に、神様が人間を、自由に操ることのできるロボットとしてではなく、人間自身が自分で考え決断できる存在としてつくってくださったことの素晴らしさを話したかったのです。そのために、我々人間と神様の思いとはかけ離れていて、私たちの浅はかな想いを超えて、神様は働いておられることを伝えようと、彼に質問したのです。ところが、浅はかなのはそのように話すことにおいてすら、息子の心を思いのままに操ろうとしていた私の方で、息子は実に自由に想像の世界を楽しんでいたのです。その彼の姿にこそ、神様が私たちに自由意思を与えてくださったことの素晴らしさを、逆に私が見させられたことでした。
 子育ては苦悩の連続です。五人子どもがいてもまさに五者五様で、上の子で当てはまったことが、必ずしも下の子には当てはまりません。同じ子でも、2歳の時にあてはまったことは、5歳になるとあてはまりません。いつも手探りで、失敗の連続です。子どもたちの寝顔を見ながら、「申し訳ない」と謝ることが何度あったでしょうか。自分の意のままに動かない子どもたちにイライラする度に、私たちの愚かさ、罪深さに忍耐をもって接し続けてくださる神様の深い愛に触れさせられています。背信を繰り返すイスラエルの民に、長い歴史の中で、その立ち返りをいつも待ち続けてくださった神様の愛。自ら家を飛び出したあの放蕩息子の帰還を待ち続ける父である神様の忍耐を伴う愛。 そんな愛をもった父には到底なれそうにありませんが、親としての大切なモデルとしても、神様を見上げつつ歩みたいと願う日々です。
ホレンコの友10月号   「オリオン座が伝える天からのメッセージ」
                             日本キリスト教団 岩内教会牧師 平 宏史   


星の写真を撮ることを趣味としている私は、星占いには全く関心がありませんが、星座に関する解説にはとても関心があります。聖書の中にも星座の名前が出てきます。旧約聖書のヨブ記第38章31節に「 すばるの鎖を引き締め、オリオンの綱を緩めることがお前にできるか」と、その優美さのゆえに創造主の知恵の深さを賛美しています。また預言者アモスも第5章8節で「すばるとオリオンを造り、闇を朝に変え、昼を暗い夜にし、海の水を呼び集めて地の面に注がれる方。その御名は主」と、星座の創造主の権威をもって、神のさばきの確かなことを示しています。
 私の大好きな星座の一つであるオリオン座、その左肩にある一等星のα星べテルギウスは、「来るべき枝」の意味があります。これは、預言者イザヤの「エッサイの株からひとつの芽が萌えいで、その根からひとつの若枝が育ち、 その上に主の霊がとどまる」(イザヤ11:1〜2)と預言した言葉に当てはまります。キリストはユダヤの民族から生まれた「枝なるメシヤ」です。高く上げた右足のかかとにあるβ星リゲルは、「踏み砕く足」を意味し、右肩の輝くγ星ペラトリクスは「不意に打ち滅ぼす」を意味しています。腰の帯に輝いている3つの星は「三人の王たち」と呼ばれているものです。これもイザヤ書に「正義をその腰の帯とし、真実をその身に帯びる」(同11:5)とあるように、正義そのものの象徴にほかなりません。
 このように、義なる神のさばきの確かさと人類への警告こそ、オリオン座が伝える天からのメッセージです。
ホレンコの友 2016年9月号  「我は福音を恥とせず」

                               札幌めぐみキリスト教会牧師 高橋養二
 
         
「 私は福音を恥とは思いません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。」(ローマ1:16)

ひとりの青年のことをお話します。
彼はその時、仕事にも健康にも恵まれ、将来も約束されるという、恵まれた境遇に置かれた22歳の青年でした。
しかし、一日の仕事を終えて部屋に戻った彼の額には、縦皺が刻まれ、口からは深いため息が漏れ出るのでした。
彼は、その恵まれた境遇に置かれた時すぐにわかったことは、「金も仕事も、将来の栄達も、そこに自分の幸せはない」ということでした。そして、生きることに何の意味があるのか、という自問に、心重く暗い日々を過ごしていたのです。
読みあさった本の中にも、彼は答えを見出すことはできませんでした。また、娯楽も趣味も、中学時代から続いた友情や家族との交流も、一時の慰めを得ることはできても、彼の心を満たすことはなかったのです。
そのような時、何気なく開いた聖書の一句が彼の心に止まりました。
「わが欲する善はこれをなさず、かえって欲せざる悪はこれをなすなり」(ローマ人への手紙7章19節・文語訳)。
彼はその言葉の中に、まぎれもない自分自身の姿を見たのでした。「これはおれのことだ。ここに俺のことが書かれている。」と心に叫んだ彼は、神の存在や奇跡の記事に躓いて、2か月続いていた教会通いを断念したばかりであったことも忘れて、牧師のもとに走りました。
牧師は、イエス・キリストの十字架を語り、「この故に今やキリスト・イエスにある者は罪に定められることなし。」(同8章1節)を示して、彼を初めての祈りに導きました。
牧師に促されて、子供のような、たどたどしい、しかし心の底からのことばで祈りをささげたこの夜が、彼の生涯のユーターンの時となりました。まさにそれは、死から命に、闇から光に、失望から生きる喜びに、彼の心が変えられた瞬間だったのです。
彼は、その後、献身して神学校に導かれ、伝道者として歩んできましたが、キリストの福音こそ、人を本当の自分に目覚めさせ、神の救いに導く力であることを信じて、様々な困難の中にあっても、変わらない情熱をもって、神と教会に仕える日々です。
彼は、不信と不安と悲しみ、孤独と嘆きと痛みに満ちたこの時代にも、神のことばが、人を生かし、失われた人間性を再建し、社会を変革する偉大な「神の力」であることを確信しているのです。
そして、かつての自分のように、生きる甲斐もなしと、ひとり心定めてたたずんでいる人を求めて、その一人の救いのためであるなら、キリストの福音を携えて、地の果てであっても行こうと願っているのです。

さて、私も今年、宣教50年を迎えましたが、このような青年が起こされることを願います。否、このような青年が、今この瞬間にも、どこかで、神に見いだされる時を待っていることを信じています。そして「時が良くても悪くても、み言葉を宣べ伝える」ひとりでありたいと願っています。
ホレンコの友 2016年8月号 「裏の畑が語り出す」                                                            
                         日本キリスト教会札幌豊平教会牧師 稲生義裕

教会には、10坪弱もあるだろうか、三角とも四角ともいえない異形の畑がある。教会がこの土地に移転して以来30年、会堂裏のこの畑には様々な表情があった。わたしの知る限りでも、トウモロコシが林立したり、ジャガイモの葉が繁っていたり、礼拝堂の傍らを彩るための花が咲き乱れたり、近所の方がホウズキの実を摘む憩いの空間となったり、保育園児が目を光らせるスイカ畑であったり……。そして、雪の堆積場として冬を越したり……と。
 過日、用事を終えて教会に戻ると、裏の畑に人の気配が。教会員のあるご夫妻が丁寧に土を掘り起こし畝を作り、新しく作付けをした畑の真ん中に、今まさしく看板を立てているところであった。縦70センチ・横1メートルほどの白い看板は、駅名表示板に良く似ていた。中央に大きく当駅の名前、右と左の下には、隣接する駅の名前が書いてある御馴染みのそれだ。
 この看板、当駅名のところには、教会名ではなく堂々と主の祈りの一節『御心の天になるごとく、地にもなさせたまえ』が。そして右下には「落花生(2種)」、左下には「さつまいも(3種)」と作物名が都度書き換えられるように油性ペンで書き込んである。
 この時、私は感じた。黙々と看板を立てるご夫妻の働きのもとで、畑の土や小動物や植物が、その存在を尊く認められ、賛美の声を上げている。
折りしも選挙カーが通りぬけ、アベノミクス(安倍首相の経済政策)の評価を云々する。TPPは農畜産物を高く売るチャンスだと喧伝する。権力の集中が平和を守るというあり得ない理屈の改憲草案が政権政党によって作られている。

土や動植物それ自体が御神の栄光を表し、それらを恵みの通路として、人は限りない御恵みにあずかっている。ところが今や、畑は御神の憐れみを知り賜る「神の庭」ではなく、生産「手段」としてしか認識されなくなりつつある。人は、金に心を奪われ、御神の恵みの深さを思うことがない。人はまた、力こそが平和を守る手段であると思い違いをしている。力を求めて競い、正義の源である神の御心に無力な僕として仕えるところに、御心がなることを忘れてしまった。

もし看板に『日々の糧を与え給え』という祈りの言葉が記されていたなら、私はきっと、余計な心配をしたのだろう。「道行く方々がどう感じるのだろうか。日々、御言葉を与え給えと祈っているとは受け取らずに、十分な生産量を求める祈りが書いてある」と受け止めるのではないか等と。
しかし、「御神の庭」にふさわしい祈りが記された。この畑のように私どもも、神の御栄光を表す器として用いられることを祈り、平和の源である御神の御心に仕えていきたい。
ホレンコの友 2016年7月号 「キリスト教の言葉」                     
                              
                      日本キリスト教団興部教会牧師 伊藤大道
 
「いつも日曜日にみんなお参りに来てるの?」「お布施はいくらくらい集まるの?」「檀家さんは何人くらいいるの?」
これは、お寺さんでの会話ではありません。紋別郡興部町にある興部教会の牧師をしている私が、キリスト教とは関係のないご近所のおじさん、おばさん方と会話している中で出てきた言葉です。一般の方にとって、キリスト教というのは未知の宗教で、教会で普段使われている「礼拝」や「献金」「信徒」といった言葉を彼ら彼女らが知らないのも無理はありません。必然、お寺や神社で使われている用語を教会に当てはめることになってしまいます。
同じことは、教会に来たばかりの子どもたちにも当てはまります。家族がクリスチャンで、物心つく前から教会に通っている場合は、キリスト教の言葉や考え方をすんなりと受け入れることもできますが、友達に誘われたり、行事の案内を見て初めて教会に来た子どもは、キリスト教のことも礼拝のことも、聖書のことも何もわからないので、戸惑うことばかりだと思います。
実際、教会に「遊びに来ている」という感覚の子どもにとって、礼拝というのは「退屈でめんどくさい時間」であり、献金は「教会に来るための参加費」のように捉えているようです。そういう子どもたちを前にして、「礼拝って何?」と問われたとき、それを子どもたちにもわかるような言葉で説明するのは、意外と難しいということに気づかされました。
普段から教会に通っている私たちは、礼拝は神様に賛美と感謝をささげ、聖書の言葉を通して神様の教えと導きが与えられる時間と場所であるというのは感覚的に理解していても、子どもたちにはその説明はなかなかな通用しません。そこで、少しでもわかりやすく説明しようと思い、ない知恵を絞って考え出したのが、卒業式のたとえでした。
礼拝を卒業式にたとえ、在校生を礼拝の出席者、卒業生を神様に置き換えます。これまで自分たちと遊んでくれたり、面倒を見てくれたりした卒業生に感謝の思いをこめてお見送りの言葉を語るのが礼拝における祈りであり、同じく感謝をこめて歌を送るのが讃美歌。校長先生の挨拶が牧師の説教。このようなたとえで説明すると、子どもたちはそれなりに納得してくれます。その上で「卒業式と同じように礼拝も心をこめて大切に行いましょう」と呼びかけると、礼拝に対するたいども少しずつ変わってきます。
キリスト教や教会の中で使われている言葉というのは、独特なものも多く、慣れてしまえば疑問を感じなくても、初めての人にとっては子どもだけでなく、それがおとなであっても最初は難しく、隔たりを感じてしまうものなのかもしれません。そういうキリスト教の言葉をわかりやすく噛み砕いて説明していくために知恵と工夫を凝らすことも、多くの人を教会に招くために必要なことなのだと思います。 
ホレンコの友 2016年6月号 「はじめに神は天地を創造された」
                        
                 日本キリスト教団真駒内教会牧師 田中文宏

 四月の熊本地震から一か月余りが経ちました。多数の負傷者に加えて、避難所や車中での厳しい生活の中で体調を崩したり、エコノミークラス症候群のために亡くなられた方も少なくありません。地震はいまだ終息に至らず、すでに余震は1500回に達しようとしています。まだまだ不安と恐れの中で過ごしている方々も多数います。被災地のみなさまに心からのお見舞いを申し上げるとともに、一日も早い生活の再建と復旧を覚え、ともに祈りをあわせていきたいと思います。
 さて、創世記1章1節は、聖書の冒頭の有名な言葉です。一般的に、宇宙の起源は150億年前のビッグ・バーン(大爆発)にさかのぼるといわれます。ご存知のように、宇宙の起源や生成については、多くの科学者たちが様々な説を提唱してきました。しかし、その謎を解き明かした人は今だかつて一人もいません。無限の宇宙の広がりは、私たちの心に神秘と畏敬の念を呼び起こします。
 創世記1章には、神様が六日間で天地万物を創造し、七日目に休まれたことが記されています。神様は、まず光を創造し、次いで大空と地と海を造りました。それから植物や草花、太陽と月と星、海の魚と空の鳥を造りました。そして、地上の動物を造り、最後に「神のかたち」にかたどって人を造られたのです。神様は、人を祝福し、自然を管理する大切な責任を与えました。そこには、進行する地球規模の環境破壊の中で、私たちに委ねられた大切な環境保護の使命が示唆されています。また、このたびの熊本地震に際しても、創造主である神様のみ前に人間としての分際をわきまえて歩むことの大切さを問われる思いでした。
 ところで、この創造物語は、科学的な説明を試みたものではありません。初めて聖書を読む人達の多くが、この創造物語に困惑します。なぜなら、進化論や科学的説明に慣れ親しんだ現代人にとって、あまりにも現実離れした神話のように聞こえるからです。しかし、聖書は科学の書ではありません。天地創造の物語は、宇宙の起源や生成の科学的説明を試みたものではなく、むしろ宇宙の存在の目的や意味を教えています。つまり、天地万物は決して偶然に生まれたものではなく、神様の愛と祝福によって創造されたのです。これに対して、科学は宇宙の起源や生成の過程を解明することはできても、存在の目的や意味について語ることはできません。
 イエス様は、空の鳥や野の花を指さしながら天地を創造された神様の愛と祝福を教えました。どんなに小さな命の営みの中にも、神様の限りない祝福が満たされています。神様の愛と祝福に感謝しつつ歩みたいと思います。(ホレンコ幹事)
ホレンコの友 2016年5月号「あまねく潤していく」
                    
                    
日本メノナイト 白石キリスト教会牧師 大山裕昭

東京で生まれ育った私にとって、北海道にやって来てとても感動したのは、四季がはっきりとしている事だ。冬が厳しく長い分、春が来るのがとても待ち遠しい。雪が解けると、一気に緑が広がり、花々が競い合うように装っていく。そのようなことで北海道にやって来て実感をもって讃美しているのは讃美歌291番『主にまかせよ、汝が身を』と、聖歌652番の『原に若草が』である。いずれも長く辛い冬を耐え忍んだ後に、命の輝く希望の春がやって来ることを、喜びをもって歌っている。これは主イエス・キリストにある希望そのものである。
 ところで『原に若草が』を訳した中田羽後師の訳で、もうひとつ有名な春の歌がある。『おお、牧場は緑』である。この歌はチェコ民謡がアメリカにもたらされ改作された“Ah, Lovely Meadows”が原曲だそうだ。小学校の教科書にも載っていたこともあり、この歌を春の遠足の時にクラスみんなで歌ったことを覚えている。普通の民謡だと思っていたので、後になってから中田羽後師の訳だと知って驚いた。
 以前、釧路で讃美の指導に講師として中田羽後師を招いた時の話が、棚瀬多喜雄師の文章に載っていた。その時、中田羽後師はこんな話をしてくださったそうだ。
「あれはね、聖霊の歌なんだよ。はるか遠い山のいただきの雪が融け、川となり、野山を下り、そしてわたしに呼びかけてくれる、ホイ! … あまりにも遠いと思われるかもしれない神の力が、わたしのすぐ身近な存在となってくださる。そして、いま具体的にわたしを助けてくださる … 聖霊はそういうお方なんだ。そう思ってあの歌を歌ってください。」私たちは知らずに、春の歌としてこの歌を口ずさんでいる。そして心が朗らかに楽しくなる。でも訳詞の中にそのような思いが込められているとは知らなかった。私たちの心に聖霊が働いてくださるのだ。

これを聞いた時に、これは放送伝道にも通ずるところがあると思わされた。普通のラジオ番組だと思って聞いていたら、流れてくる讃美歌やみ言葉が耳に入り、そして心を潤し、今日一日が喜びに満たされる。そしてやがてわたしの生き方を変えていく。放送伝道は、あまねく人々の心を潤すことが出来る。聖霊が働いてくださるからだ。

     おお、牧場は緑 草の海 風が吹く   おお、牧場は緑 よく茂ったものだ(ホイ)
     雪が解けて 川となって 山を下り 谷を走る  野を横切り 畑潤し呼びかけるよ 私に(ホイ)         (訳詞 中田羽後)

「雨や雪が天から降ってもとに戻らず、必ず地を潤し、それに物を生えさせ、芽を出させ、種蒔く者には種を与え、食べる者にはパンを与える。そのように、わたしの口から出るわたしのことばも、むなしく、わたしのところに帰っては来ない。必ず、わたしの望む事を成し遂げ、わたしの言い送った事を成功させる。」(イザヤ書55章10・11)
ホレンコの友 2016年4月号「さらに新しくされることを願って」
                 
          日本キリスト教会札幌白石教会 牧師 斎藤義信

ホレンコの活動が続けられていることに感謝を覚えます。
 4月になって新しい体制で動き出したところもたくさんあると思います。
 くり返し新しくされることは素晴らしいことです。でも新しくされるということにも色々な意味があります。ヨハネ福音書2章で、主イエスがニコデモに向かって「新しく生まれなければならない」ことを教えられた時に、ニコデモはイエスの言われた「新たに」という言葉を「もう一度」という意味に取り違えて受け取ってしまったので、「もう一度母親の胎内に入って生まれることなどできません」と答えています。イエスが言われた「新たに」という言葉の本来の意味は「再び」とか「上から」という意味を持っていましたから、ニコデモの受け止め方はそれほど見当はずれな理解であったとは言えませんが、イエスは「上から」という意味を強調したかったのだと思います。ですから次に言い換えて「誰でも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない」と言われています。天(上)におられる神の働きかけを受け止めていかなければならないことが強調されています。「水と霊」ということは具体的には洗礼が意味されていると見ることができます。洗礼を受ける前のニコデモは夜こっそり、自分がキリストを信じていることが人に知られたくない思いでイエスのところに来ていましたが、その後ニコデモは洗礼を受けたのでしょう。イエスが十字架につけられた時には、イエスの亡骸を引き取ることを申し出て、人前に堂々と自分がキリストを信じている姿を明らかにしています。実に大きく変わったというだけではありません。本当の意味でニコデモは新しくされました。
 私たちは自分がクリスチャンであると、堂々と人の前に明らかにしているでしょうか?教会に出かける時に、知人に「どちらにお出かけですか?」と聞かれて「はあ、ちょっとそこまで」と応えるようなことはないでしょうか?どうして堂々と教会に行くところだと言えないのでしょうか?むしろ本当に新しくされなければならないのは私たち自身ではないでしょうか。
ホレンコのさらなる前進を願いつつ・・。          (ホレンコ幹事)

ホレンコの友 2016年3月号「実存的信仰の問いとして・・・」
                 
            川野真司牧師 (カナダ合同教会海外派遣宣教師・
                           日本キリスト教団十二使徒教会牧師)

 2016年のレント(2月10日〜3月26日)のシーズンが始まりました。レントのシーズンは、その最後の週である受難週そして、聖金曜日の受難日をもってクライマックスになります。我々、一人一人の信仰者、そして我々の信仰共同体の信仰の実存的深淵のなかで、自分の心を探り、神様と真摯な親しい交わりをもつ時です。イエスが、十字架の上で、「我が神、我が神、なぜ・・」からはじまる詩篇22編を唱えて息を引き取られました。私は、ロゴセラピー(ビクターフランクルの実存精神分析による心理療法)を牧会に、カウンセリングに、そして説教に反映してきたものとして、このイエスの十字架の言葉を私なりに、少し分かち合いたいとおもいます。そのロゴセラピーの視点から読み込んでいきますと、へブライ語のイエスの詩篇による問いは、「なぜ」というより、「何ゆえ」という問いです。神を疑問視しているのではなく、神に問いをたてているのです。つまり、この苦しみの意味をまったく確かな前提としたうえでの「なぜ、神が、十字架の死を私に課せられたのか」という問いです。それは、人間としてのイエスにとっては、原理的に知ることが出来ないものを認識している信仰から発せられているのです。知らないから問うのではなくて、神からしか、聞いて知ることが出来ないから問う問いなのです。イエスは、「それゆえに、私は、あなたに問わざるを得ないのです。」と言っているのです。これこそが、イエスと父なる神との対話です。これこそが、あの苦悩のヨブと神との対話です。これこそ、捕囚の時代に悩み苦しむイスラエルをはげました預言者たちと神との対話です。これこそ、わが子、イサクを祭壇に捧げたアブラハムと神との対話なのです。
 信仰の対話は、深淵な真摯な祈りです。キリスト者の祈りとは、ご存知のように現世御利益的祈りではないのです。自分の苦しみ、信仰共同体の意味を神のみが知り、その意味を自分の十字架を負いイエスに従う人生で、神に応えていくことを課せられている信仰なのです。この詩篇22編は、また、イエスの十字架の意味は、そして、我々の信仰の本質は、そこから始まるのです。それに応え始めたとき、我々は、イースターの朝をむかえはじめることができるのです。墓を空にしたイエスが、マグダラのマリヤに呼びかけたあの声を我々ひとりひとりも、自分への呼びかけのパーソナルな声として聞くことが出来るのです。
(ウイーン国際本部認定資格ロゴセラピスト)
ホレンコの友 2016年2月号「さあ、共に生きよう」
                  
            
日本基督教団北見望ヶ丘教会牧師 秋山千四郎

 かつて高校生だった頃、生まれて初めてコンサートホール(札幌厚生年金会館)に行き、ベートーヴェンの交響曲第九番を聞いた。レコード(CDなどない時代)では聞いていたが、実演は初めてだった。第四楽章に入って「合唱」が始まる直前、合唱団が全員すっくと立ち上がるのだが、そのシーンのやたらかっこよかったこと。鳥肌が立ったのを今でも覚えている。
思えば悩み多き高校時代だった。自分は何者で、これからどう生きて行ったらいいのか……何のために勉強するのか、進学するのか、就職するのか……進学して、就職して、それで何なのか……。将来の展望もなければ、今現在の居場所も見つからない、とても苦しい高校時代だった。キザな話のように聞こえるかも知れないが、当時の多くの高校生は悩んでいた。そういう時代だった。
そんな悩みを抱えながら「第九」を聞いたわけだ。「僕という人間は、旋律を歌う第一ヴァイオリンじゃないな。それにぴったり寄り添う第二ヴァイオリンでもない。かと言って、チェロやコントラバスのような強い存在感もない。輝かしい金管楽器でもなければ、優雅な木管楽器でもない。ましてや雷鳴のようなティンパニではない。僕はオーケストラの楽器に例えると何だろう」……気が付けば、そんなことを考えながら聞いていた。音楽の聞き方としては不純だと思う。でも、最終的には感動した。初めてのコンサートということもあったけれど、それ以上に「第九ってすごいなあ」と心から感動した。
結論。音楽(特にオーケストラ曲)を聞く時には、個々の楽器に関心を奪われては駄目だ。個々の楽器は部分に過ぎない。部分は分に応じて、おごることなく卑下することなく、精一杯、それぞれの個性を歌えばよいのだ。大事なことは、部分同士・個性同士が互いに補い合うこと、しっかり組み合わされ、結び合わされることだ。そこに「第九」という偉大な音楽が立ち現れる。
さて、主の年2016年も私たちは、様々な課題や問題や限界を抱えてはいるけれども、すっくと立ち上がり、それぞれの歌を歌い続けよう。家庭で、職場で、そして何よりも教会で。私のパート(部分)に、家族のパートが加わり、友のパートが加わり、互いに補い合い、組み合わされ、結び合わされて、私たちの歌は「歓喜の歌」となることだろう。
『キリストにより、体全体は、あらゆる節々が補い合うことによってしっかり組み合わされ、結び合わされて、 おのおのの部分は分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆくのです』 (エフェソの信徒への手紙4章16節)
ホレンコの友 2016年1月号 ごあいさつ「新しい年を迎えて」
                        
                         日本キリスト教団:小樽聖十字教会牧師 小栗 昭夫

 2016年を迎えました。ホレンコは今年で57年目を迎えます。これまでの日々、どれほどたくさんの方々の祈りによって支えられて来たことでしょうか。ことばに尽くせないほどの感謝を覚えます。
特にこの10年間は、財政的問題に直面しながらも、神様の憐れみの中で数々の助けを頂きながら放送伝道を担ってくることができました。この背後には皆さまのあたたかいお支えと執り成しの祈りがあったことを覚えます。ホレンコの、このような事情につきましては、毎月皆さまのお手元にお届けしています当機関紙「ホレンコの友」に記載されている月々の会計報告によって、すでにお気づきのことと思います。このことにつきましては、幹事会一同、神様の導きと知恵を求めて祈りつつ、いろいろな方策への検討を重ねております。
すでにご承知の方も多いことと思いますが、ホレンコは、北海道の大地にあって共に福音宣教を担っておられる、およそ20の教派、教団の中からお送り頂いている牧師、信徒の方々が運営部会と放送部会に分かれて活動をしています。そして、3名の姉妹たちがスタッフとして実務全般を担い、文字通り“北海道自前”の放送伝道センターとして活動して参りました。
 このような、超教派的な放送伝道のネットワークを、57年前に提唱して下さったエヴァン・アダムス先生は昨年神様のみもとに召されて行かれました。アダムス先生が天に召された、との報告を伺ったとき、私の心に、アダムス先生がホレンコの総主事としてご尽力下さっていた、ちょうど同じ時期に行われたケネディ大統領の就任演説と、その中で語られていた「たいまつが新しい世代に受け継がれてきた…」との有名な言葉が思い起こされたのでした。それと云うのも、アダムス先生が高々と掲げられたたいまつ、いのちのみことばは、57年間にわたり北海道の大地の隅々を、明るく照らすべく幾つもの世代に亘って受け継がれてきたのですから。それは、神様の前にあって大きな喜びであり、又、感謝でありました。
今、私たちの願いは、益々混迷する世界の只中に向かって、世の光としての役割を担う“福音”という、明るく輝くたいまつの輝きを、さらに輝かせ続けて行きたい、ということです。
そのためには、これからも全道の皆さまの篤いお祈りとさらなるお支えが必要です。この新しい年も、放送伝道を通して福音宣教を共に担って頂く方々が次々に起こされますように、皆さまのお力添えをどうぞよろしくお願いいたします。神様のご祝福を祈りつつ。